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愛ってなんだって話と恋愛嫌悪。

『Sex Education』のアダムの告白シーンを観て、なぜか号泣している。

このドラマに出てくる人物はみんな、誰かのことを考えて悩んだり、思い通りにいかなかったり、時に衝動的にズルいことをしてしまったりして、すごくドラマのある日々を過ごしている。ドラマだから当然なんだけど。

最近、自分という人間が理解できなくて苦しい。毎日がジェットコースターのようで、上がったり下がったり、ハッピーな気持ちになったり訳もなく(ないわけでもないが)死にたくなったりを、1日の中で何度も繰り返してる。

僕は愛情深い人間だ。字面だけ見ると大したことない、むしろどちらかと言うと良いことのように捉えられるかもしれない。けど、自分の中ではかなり脅威的な病のように感じている。かなりこれに悩まされている。

一度その人を好きになればとことん好きになるし、その子が望むことを言ってあげたい、してあげたいって思う。好きという感情をなんの恥じらいも惜しげもなく伝えられる。多少ほったらかされたり雑な扱いをされても、あーって気持ちにはなるけど、少し時間が経てば元通りになる。

これが恋愛的に好きなひとりに対してなら、そんなに困らないのかもしれない。でも僕の好きは確実に恋愛感情ではない。友達でもほかの関係性でも、人として好きになった人には全員に対してこの感情を抱く。

僕の周囲の人々の友達付き合いを見て聞いていると、僕の考える友達に対する感情とは全く異なるように思う。みんなそれぞれ多かれ少なかれ違うんだろうけど、なんか僕のもってる関係性は恋愛でも友情でもないなにかのように感じる。ポリアモニーのほうが近いのかな?でも恋愛感情ではないし違うか。

それも含めて僕は僕だとポジティブに生きたいけど、なかなかうまくいかない。誰かに相談しても、恋愛がなくても人生楽しいこといっぱいあるよとか言われるんだろうし自分でもそう思いたいのに、なにか欠けているような気持ちになる。

そんなこんなで『Sex Education』の彼ら/彼女らを見ていると、自分がすごく空虚な人間で退屈な人生を歩んでいるように思える。将来食べていかないといけないんだからって言われるけど、なんで?なんのために?が僕の正直な感想だ。

結局、見返りは求めてないけど、自分がもってる感情と同じものを誰かに与えてもらいたいと思っているのかな。恋愛は必要ないけど、ときどき特別な愛は必要なのかな。


でも、他人からの愛はなぜか信用できない。脆く腐りやすいように感じる。僕は大変光栄なことに、恐れ多いがときどき、人から褒められたり憧れられたりすることがある。初対面で、インスタ見てます、note読んでます、かわいい服着てる子がいるなって思ってました、と話しかけられることも有難いことに少なくない。その入り口が多いからか、その度に失望される=愛されなくなるという意識が芽生えて、何事にも完璧主義に陥りやすくなる。これも苦しい。

かわいい服を探さないと、良い文を書き続けないと、おもしろいことが言えないと、なにかひとつ失敗してしまったら、「やっぱり勘違いだったのかも。」って思われちゃうんじゃないかといつも考えてしまう。自意識過剰だ。本当はたくさんあるだめな部分だってもう知られてるはずなのに。完璧でいるなんて不可能なのに。

それと並行して、自分の恋愛嫌悪もかなり進んでいる気がする。映画の恋愛描写は客観的に観られるから、別の生き物の生態観察くらいに思えるんだけど、好きな人が恋愛の話をはじめた途端、一気に失望するというか、軽蔑してしまうというか、生理的に受け付けない体制に入ってしまう。急に気持ち悪くなる。(もちろん時間が経てばまた戻る)

これは良くないなあって自分でわかってるんだけど、思考より前に制御できない感情が湧き出てきて、脳に悪霊退散の札を貼ってしまうような、耳をふさいでわーわーってしてしまうような、そんな感じ。stop恋愛至上主義には大いに賛成なんだけど、恋愛嫌悪になるのは良くない。どう対処すれば良いのやら。

恋愛嫌悪の僕が、誰より特別な愛情をどこかで求めているのかもしれないって、すごく皮肉だ。

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