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まあるくなる

 数日前に出した記事は少し棘があったので、下書きに戻してもう一度書こうと思います。一人だけスキをくれたのですが、おそらく何のこと?の人が多いと思うのでそのままでいいです。今日の記事で少し棘を抜いて書き直します。


 「大切なことは失って初めて気づく」
こんな歌詞があふれているように、私たちは色んなものや状況を、すぐに当たり前のものとしてしまうのだと思います。大切な人がいることも、いい環境にいることも、得たその瞬間にはありがたみを感じられるのに、いつのまにかそれが当たり前になって、ありがたみなんて忘れてしまう。

褒め言葉かどうか微妙な「空気のような存在」。必要不可欠だけど、在ることを特別意識はしないこと。そんなものやことが、気付いていないだけでたくさんあるのだと思います。

そして、変化によって気付かされるものというのは、何も失う事だけじゃなくて、得て気づくこともあると思います。何かを得て、初めて今までの不足に気付く。あるいは、あるものを得て、初めて今までの充足を知る。どちらもあるなと私は思います。

この前したお話、そして今日書き直すのも、その後者のことです。


 11月から働き始めたバイト先は、人の悪口や偏見に塗れた言葉が飛び交っています。数人しかいない職場で、飛び交うというのもどうかと思いますが、実感としては飛び交っているのです。

その悪口が自分に向けられたものでなくても、その偏見の対象に私が入っていなくても、いつ標的にされるか分からない状況というのはエネルギーを消費します。また、いつ自分の口から同じような言葉が出てくるのかと思うと嫌悪感でいっぱいになります。

そこで初めて気づいたのです。私の今までの対人関係がいかに恵まれていたかということに。

私の記事で度々出てくる高校時代の弓道部。その部は、変人の多い学校で特に変人が集まると言われていた部です。言い方は悪い気はしますが、間違いではなかったです。地域の中では頭のいい学校だったので、勉強が出来すぎてコミュニケーションに難がある子や、極端な考えを持つ子はいました。今まで大人に怒られたことのないような子やプライドの高い子もいました。そして弓道部にはその中でも「the 〇〇高」というような子が多かったのも事実です。

そんな部活の部長になって、大変なことはありましたが、腹を立てたり、悪態をついたりすることはもちろんしませんでした。そこには、「自分も普通ではない」という意識があったからだと思います。

普通じゃない、と言うと悪口のようですが、前提として「普通」を作っていませんでした。それでも周りは、明らかに自分とは違う人と出会うと「普通じゃない」と言います。そんな時に「普通って何?」と突っかかるよりも、「自分も普通じゃないしな」と思った方が私は楽でした。

悪口を言う人というのは、自分を物事の基準にしているのだと思います。自分が普通で、自分の許容範囲を超える人は見下していい対象。自分に自信があることはいいことですが、他の人もそれぞれ自尊心があることを忘れてしまうような自信の持ち方は自惚れと変わらないと思っています。


 この前つぶやきで出したことも、バイト先のおばさんの偏見に対してです。心の病について。

「そんな人周りにおらんでしょ?」

きっとおばさんは、私がこんな思考回路を持っていることなんて知らないし、私がこの2,3年どう過ごしてきたかも知らないのです。私も知られない方が楽だからいいのだけれど、私みたいな人も、私よりも思い悩む人も、世の中にはたくさんいることを知っています。

自分がこうでなかったら知らなかったかもしれない事実を知った今、私はもう知らん顔はできないのです。そして、他にもあらゆる方面において、私の知らないことがたくさんあるのだと、知らない内容は分からなくても、やはり知っているのです。

気付けていないだけのことがたくさんある世界で、私の何の気もない言葉が誰かを傷付けるかもしれない。「生きてることの加害性」といった言葉もあるくらいだけど、その加害性があることを知っているか否かで人は変わると思います。

加害性を怖がって何もしゃべらないことはできないし、加害性のない行動ばかり取れる自信もありません。だけど、自分が加害者になるかもしれないという意識を少しでも持っているだけで、優しくなれると思うのです。

だから私は意地悪だけどおばさんにこう返しました。

「いるけど、気付けないだけだと思います」


 休学をした1年間を、休学することになった私の弱さを、どうにかこれからの人生に必要だったと思えるものにしたいと思って勉強した資格も、先日無事に取れました。

私のような状況になった人はよく「まさか私が」なんて言うけれど、私にとっては「来るべき時が来た」と思いました。いつかはこうなるんじゃないかという怖さをずっと隠しながら中高を過ごし、夢を持つことで持ちこたえていたものがいよいよダメになったのが少し前の私だと思います。

一般的な大学生に比べて2年の遅れ。2年で得たのは学力でも経験でもなく、弱さと共に生きる方法。

何もなくすんなりと行けた方が絶対に良かったけど、こうなったからには私はとことん考えて、様々な人の弱さと向き合って、優しくなろうと思います。

私の中の弱さやら後悔やらが棘になって、じわじわ蓄えられたのが今までです。角が集まって集まって、今まで見ていた視界と正反対の180°集めてしまったから、驚いて歩けなくなったのです。

歩けなくなって、休んで、少しだけあたりを見まわして。今まで見えていなかったものが見えるようになったことに気付いて、そのことを良いことだと思おうとして。良いことになるようにやっぱりもう一度歩こうとしているのが今です。

これからは、自分の棘だけじゃなくて、人の棘とも向き合って、集めて集めて、360°回ってまあるくなろうと思います。まあるくなって、元の位置に戻って。でも見える景色は絶対に変わっていると思います。その景色の中で、私は新しい夢を持って努力していける人になっていたいのです。

今の私は綺麗事も本気で目指しています。馬鹿にされても、腹を立てられても、私はそんな自分の方が好きだなぁと思うので。


「(前略)先生、三角形の三つの角を足すと百八十度になるでしょ。まっすぐです。痛い角が三つ集まるとまっすぐになれるんです。六つ集まったら、三百六十度になるんだ。まん丸です。もう痛い角は失くなってしまうんです。ぼくとか赤間さんとかは、もう一個目の角を持ってるんだ。他の人よか早く、まっすぐやまん丸になれるんです。まん丸ってすごいですよ。だって、地球だって本当は丸いんだぜ」
山田詠美『ぼくは勉強ができない』



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