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What are you made from?

 先日SEKAI NO OWARIの藤崎彩織さん著の「読書間奏文」を読んだ。私は読書が好きなのだが、どうもエッセイや短編集は苦手だ。そのためこの本も読みたい本リストに入れたまま長いこと放置されていた。すると、先の1月4日に文庫化されることになった。私は地方に住んでいるため、大抵本は発売日の数日後にしか店頭に並ばないのだが、その日の私は大都会、博多にいた。Official髭男dismのライブのため一人旅をしていたのだ。読書好きというのは、暇なとき近くに本屋があれば必ずと言っていいほど入ってしまうのではないだろうか。私も例外ではない。本当は会場に行く前に、博多駅の周辺で買い物をしようと、お金も余分に握りしめ、田舎者らしくわくわくしていたのだが、たくさん店があっても、魅力的なものがあっても、あまり時間はつぶせなかった。お土産屋さんでは、どこの店も大体同じものを置いているため、目当てのものが買えたらそれで終わってしまう。カフェやレストランは、店の前に待っている人がいると、ただ黙々と食べ早く出なくてはいけない気になる。ウィンドウショッピングをしようものなら、すぐに店員さんが話しかけに来るため、逃げるように店から出てしまう。そんなこんなで私はやっぱり本屋に行くのであった。その日だけで3つの本屋に立ち寄った。やっぱり都会だけあって、読書間奏文も発売日にしっかり店頭に並んでいた。さすが都会だ!という高揚感も相まって、迷わず手に取り、初めての書店の文庫カバーに少し興奮しながらほくほくした気分で購入したのであった。

 1段落使って購入に至るまでを書いたわけだが、ここからはきちんと本の内容に触れていきたいと思う。この本には1章につき1冊ずつ本が出てくる。有名な本から翻訳本まで幅広い。前書きでは彼女が本の虫になるきっかけを書いている。彼女は小学生のころいじめられていた。でも彼女は典型的ないじめられっ子とは少し違った。自分の軸をしっかり持ち、一人でもそれがなんだと思える子だった。しかし、実はそうではなかった。彼女はフリが上手なだけだった。自分がなりたい自分、いじめてくる相手がつけあがらないような自分を演じていた。休み時間に文学少女として颯爽と図書室に向かい、大きくて分厚い本に顔をうずめる。彼女は本に隠れて泣いていた。本は彼女にとって物理的な隠れ場所でしかなかった。しかしいつしか彼女は演技の文学少女から本当の文学少女になった。本が彼女に語り掛けるのだ。 

「あなたにはこんなに素敵な本があるじゃない」

と。本当は「私にはこんなに素敵な本があるじゃない」だったかもしれない。ただ確実なのは、本は彼女に寄り添い続け、ミュージシャンとしての彼女も、作家としての彼女も、母としての彼女も、本に支えられてきたということだ。

 「犬の散歩」ではSEKAI NO OWARIのデビュー前から一気にスターになるまでの葛藤が描かれている。

「何かを捨てるということは、同時に何が大切なのかをはっきりとさせることだった。」

がむしゃらに何かをやっている時は、自分にとっての優先順位が明確になっている。テスト期間なら勉強、部活の大会前なら練習、その他のことをなおざりにしてでも今の自分に重要なことを突き通す。同時にその大切なものは、自分の思考回路において様々な基準になる。他の誘惑がきた時、そのものさしを出して思いとどまる。人は基準や決まりがあると楽なのだ。がんじがらめの規制だらけの世界では、窮屈に感じるかもしれない。しかし、考える時間は格段に減る。できることが限られているのなら、やりたいやりたくないも関係なく、ただやるしかないのだ。基準を失うことは、人に考えることを強いてくる。「これはあれより大事だから今しよう」と思っていたものが「これは大事かわからない、でもやった方がいいかもしれない、でも後でもいいのかもしれない、でも…」とどんどん自分の考えがまとまらなくなる。伝える場所を失って、自分の考えをまとめることができなくなった私はまさにこの状態だった。何か基準がなければならない。それは夢かもしれないし、小さな目標かもしれないし、あるいは信念のような抽象的なものでもきちんと基準にできる人もいるだろう。今の私にはこの基準がない。彼女にとっての基準は、8000円でネパールの子供の里親になることだった。8000円は今の彼女にとっては些細なお金だろう。しかし、他者からのバイアスもかかって、8000円は彼女が思う以上の価値を持った。自分で基準が作れないのなら、他人に決めて貰えば良いのかもしれない。「人と比べるな」「自分は自分だ」とはよく言ったものだが、それは自分の基準を持ち、軸があるから言えるのだ。周りに合わせて、その基準の中で生きてみれば、自分にとって大事な価値も見つかるのではないだろうか。

 一つ一つの章を語ればキリがないが、ひとつ印象に残る言葉があった。「空っぽの瓶」に出てくる言葉だ。

愛しているのか無関心なのか。

はっとした。「愛している」の反対は「嫌い」だと思っていた。しかし、この文を読んでからは、無関心というのがしっくりくるようになった。「好き」の反対は「嫌い」だと思う。「好き」と「愛している」では少し感じ方が違う気もする。漠然と言えば、「愛している」の方が大人な感じがする。もっと言えば、愛しているには必ずしも行動は伴わないのかもしれない。親は子供を愛している。子供が大きくなって自立して離れて住むようになっても愛している。でも愛しているからといって、頻繁に話したり会ったりするわけでもない。ただ健康を祈り、帰ってこれる場所を守っている。「好き」よりももっと深く、無条件で、静かなイメージがある。だからこその「無関心」なのだ。「嫌い」はまだ相手を意識し、時には嫌いだから何かしらの攻撃をする。でも「無関心」は何もない。ただただ無なのだ。この一文はおそらくそれほど重要性はない部分だろう。もしかしたら彼女も深く考えて書いた訳ではなく、ただ対比として出しただけかもしれない。だが、この一文が放つ残酷さはとても印象に残った。

 話はSEKAI NO OWARIのSaoriに戻るが、昨年リリースされた「バードマン」という曲がある。とても素敵な曲なのだが、初めて聴いた時、「これは深瀬さんの言葉だ」と感じた。彩織さんの作詞だと知って驚いた。それくらい深瀬さんの考え方が反映されていた。仲がいいとはいえ、こんなにも似てくるものなのかと不思議に思ったのだが、この本を読んで納得がいった。彼女は人より多くのものを吸収している。本からも周りの人からも多くのことを吸収し、消化し、彼女を作り上げている。そのことが強く感じられた。決して周りに呑まれているわけではない。彼女は彼女だ。ただ彼女という存在が人より吸収力が強く、反映する能力も高いというだけだ。本を通して彼女が構成されるように、彼女の本を通して彼女の構成過程を垣間見た気がした。

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