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 今日は、私の「評価」に対する考えと、noteをやってみての感想です。読んでいただけたら嬉しいです。


 かの有名なサンテグジュペリの星の王子さまにある一節。

小惑星B612について、こんなにくわしく話したり、番号まで明かしたりするのは、おとなたちのためだ。おとなは数字が好きだから。新しい友だちのことを話しても、おとなは、いちばんたいせつなことはなにも聞かない。
星の王子さま サン=テグジュペリ著 河野万里子訳

私はこれを読んだとき、数字に固執した大人になるもんか!と思った。中学生の頃の国語の授業で、軽く読書感想文を書く時間があった。その時私はこの言葉を用いて、学校で行われる「学習時間調査」の実用性を皮肉交じりに書いた。時間より、質だと。どんな勉強の仕方をしたか、そちらの方が大事なのではないかと。

 でも今なら分かる。数字は一番分かりやすくて、公正だ。悲しいけれど、これがきっと真理だ。

 高校生の時、友達はよく

「偏差値だけで大学が決まるっておかしい!」

と言っていた。もっと日頃の態度や大学進学に対する意欲を見てほしいと言った。

 でも、そんなことは不可能なのだと思った。大学教授が一人ひとりの受験生を把握することなど不可能で、高校の担任ですら生徒のことをすべて把握することは不可能だ。それなら、きちんと大きな母数で算出された偏差値を用いる方が正当性がある。

 数字の評価を重んじる一方で、自分にとって意味を為さない数字も多くあった。いわゆる質的データのようなもの。成績でも、中学までのような3段階、5段階の評価はどうでもよかった。オール5でも喜んでいいものか分からなかった。いくら基準があるとはいえ、先生によって、学校によって、バラツキがあると思った。その点高校からのテストの点数がそのまま通知表になったものは、信じる価値があった。全国の高校生と受ける模試の偏差値も信用できた。

 私はいい評価が欲しいのではない。正しい評価がほしい。

 私が今実際に動かしているSNSは、noteとInstagramの2つだ。この2つは全く異質なものだと感じる。

 Instagramは苦労せずともフォロワーが増え、いいねももらえる。見つけてもらいやすいハッシュタグの付け方や、みんなに好かれる投稿も何となく分かる。“フォロバ100%”や“いいね返し”といった文言もよく見られる。Instagramのフォローやいいねは、ほとんどの場合、相手からの見返りを求めている。度々、“フォロバしてくれてない方フォロー外します”、“リム通オンです”といった言葉も見られる。フォローが来たらフォローバックし、ずっとフォローを外さない。投稿を見たらとりあえずいいねを押す。

 そこに正しい評価など求められていない。みんなで互いに評価、しかも高評価をし合うことだけが求められる。私も深く考えず既読感覚のいいねを付けていく。

 でも中には本当に、本当の意味で、いいねを押したい投稿がある。素敵なキャプションであったり、ファンアートであったり。いいね!と本当に思うのに、それは私が既読感覚で付けたピンク色のハートマークと同じものにしかなってくれない。

 それはそれでいいと思っている。Instagramでは私もあまり深く考えず、同じアーティストが好きなファンの方とつながることだけを考える。いつか、アーティスト本人の目に留まればいいなと思うことがあるから、そのためにやっている。それだけ。

 一方でnoteはとても正しい評価をされていると感じる。私が今まで投稿した文章で一人も見ていない文章はない。でもスキがない文章はある。見てくれた方が、途中で読むのに飽きてしまったか、最後まで読んだけどいいと思わなかったか、それは分からないけれど、その評価に私は安心する。私は特段自分の文章に自信を持っている訳ではない。人に見られる意識はしているけれど、人に魅せる意識はあまりない。だから、少ないスキの数はすごく妥当に思える。

 少ないスキだからこそ、私はそのスキがとても嬉しい。この前ずっとスキが付かなかった投稿に、スキとコメントが付いた。その投稿は今私が出している中では一番大事にしたいと思う投稿だった。私はそのスキと、素敵なコメントがとても嬉しかった。

 noteには素敵な文章を書く方がたくさんいる。時間がある時、おすすめに出てきた文章をふらっと見に行き、いいなと思ったらスキを押して、その人の他の文章を読みに行く。スキな文章が複数あれば、フォローして、その人の紡ぐ言葉を見逃さないようにする。

 私のスキもフォローも、本当にその文章がいいな、素敵だな、と思ったからしたものだ。決して、あなたもスキして、フォローして、とは思っていない。フォローしてくれたからといって、私の文章を全部読んで、全部スキして、とも思っていない。でもフォローが長くなれば、一定のバイアスがかかることはあると思っている。アーティストでも同じだ。初めは好きじゃなかった曲も、そのアーティストにハマって聴いているうちに何を聴いてもよく聞こえてくる。これは、誤った評価というより、そのアーティスト自身に対する評価であって、より深い評価ではないかと思っている。あなたの書く文章のすべてがいいものに見え始めた時、私はきっとあなた自身を魅力的に感じているのだと思う。

 私はただ素敵な文章を読みたいだけ。

 そして、私が素敵な文章を書けた時に、あなたがそう思ってくれた時に、スキやフォローがあれば嬉しい。

私は、たくさんの高評価が欲しいわけではない。あなたの正直な、重みのある評価が欲しい。評価されないことよりも、過大評価されることの方が、何倍も怖くて悲しい。

少ない評価でも、その正直な評価に私は安心する。そして、その評価に私はいつも感謝している。

 もしも、最後まで読んでくださったのなら、ありがとうございます。

こういうものは決して公平にはいかないもんだよ。だれでも、自分の好きなものが好きなんだ。それはすばらしいことでもあり、ひどいことでもある。それはひとそれぞれの好みの問題で、ある特定の日のある特定のグループのひとたちによる評価なんだ。
書店主フィクリーのものがたり ガブリエル・セヴィン

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