「32歳腐女子」に何が起こったのか(個人の感想です)

今日、ツイッターのハイライトを眺めていたら、

32歳腐女子自分の子供っぽさに気づいて恥ずかしくなる

というはてな匿名ダイアリーが話題になっていた。

私はまさにそれくらいの年齢のオタクであり、自分の子供っぽさがコンプレックスでもあるため、身につまされそうだな………と思いながら読んでみた。
何というか、一言では感想が言えない記事だなあと思った。
(文章はすごく読みやすかった)

ツイッター上では、オタクが「ミモレ丈」という単語は知らないだろうとか、記事中の友人が書いた主人公の32歳腐女子Aさんを陥れる釣り文書ではないかとか、何歳だろうが好きな格好をすればいいとか、とにかくいろいろな意見が噴出している。
そんな中、半日経ってようやく感想が多少言語化できたので、簡単に書き留めておく。

なお、このnoteは件の記事はAさん自身が書いたものという前提で書いているので、ご承知おき願いたい。
また、Aさんを貶める意図は決してないのだが、人によっては不快に感じられる文章となっている可能性があることもおことわりしておく。


私はAさんの記事の本質は、自身の「年齢不相応な」生き方への反省ではなく、
「『【腐女子】であるだけでなく【32歳】でもあった自分』に気づいた衝撃」
だと思った。

タイトルからもわかるように、Aさんは32歳の腐女子だ。
これを図式化すると、下図のようになる。

32腐女子01

青(32歳)とピンク(腐女子)の斜線が交わる部分に、Aさんは属している。
もちろん、この他にも【会社員】とか【長女】とか(あくまでも一例)、いろんな円があって、それらが重なり合ったごく狭い一点こそが、Aさんの属する場所、いわば「軸足」がある部分となるのだが、今回はあくまでも「32歳腐女子」の話なので、そのへんは簡略化する。

記事を読む限り、Aさんは本人の言葉通り、腐女子としてはめちゃくちゃ、もう本当にめちゃくちゃに充実した生活を送っている。正直うらやましい。
推しイメージのアクセサリーを集め、使えるお金は全部オタ活に使い、ツイッターの同好の士とオタク話でハイテンションに盛り上がる。
これは憶測だが、Aさんは(ここ数年分の)人生のリソースの大部分を、この【腐女子】というカテゴリーに費やしてきたのではないだろうか。
それはお金や時間だけでなく、「自分の軸足の置きどころ」も含まれる。
ここで言う「自分の軸足の置きどころ」とは、広義のアイデンティティというか、自己紹介をする時に真っ先に言う部分、みたいなイメージだ。
Aさんは自分の軸足を【腐女子】というカテゴリーに置き、【腐女子】というカテゴリーを自分の真ん中において生活してきたのだろう。
そして、結果として、それ以外の属性――たとえば【32歳】というカテゴリーは、Aさんにとってはほとんど意識されないものとなっていたのかもしれない。

32腐女子02

だが、そんなAさんの日常は、同い年の友人B・C・Dさんとの集まりで崩れる。
自分と同じ【腐女子】だったはずの友人たちは、みんな「年齢相応に」大人っぽくなっていた。
ちゃんと服や化粧品にお金をかけて、人生設計を考えてお金の使い方を考え、萌え語りも落ち着いている。
自分とはぜんぜん違う彼女たち。だが、彼女たちと自分は「同じ」【32歳】なのだ。
ここで初めて、Aさんは、自分は【腐女子】であると同時に【32歳】でもあったことを自覚したのではないか。
つまり、今まで背景のようになっていた【32歳】というカテゴリーが、友人との集まりの場でいきなり自意識というステージの真ん中に引きずり出されたのだ。

32腐女子03

そして、「【32歳】としての自分」を意識した時、「自分の現状がとても32歳には思えなくて恥ずかしくなってしまった」。
ここで起こっているのは、「軸足のゆらぎ」とでも言うべきことだろう。
Aさんの軸足は【腐女子】にあり、そここそが自分の中心だと思って生きてきたが、同じ場所に軸足をおいていると思っていた友人たちは、むしろ【32歳】に軸足をおいて生活しているようだ、という発見。
そして【32歳】は自分の中にもある場所だったこと、自分はそこをないがしろにしてきたことへの気づき。
そういったものが、Aさんのそれまでの生き方をゆさぶり、「恥ずかしい」という感情を生んだのではないだろうか。


ところで、カテゴリーとその内側にいる人たちの関係は、学校と在校生の関係に似ている。
〇〇中学校の校舎の中にいる生徒たちは、全員等しく「〇〇中学校の生徒」ではあるが、逆に言うとそれ以外の属性は十人十色だ。体育会系から優等生、不良に陰キャまで、さまざまなタイプの人間が「ある一点(校区や年齢)が同じ」というだけで共存しているし、人によってはタイプを超えた仲間意識や連帯感を覚えている。
(もちろん、普通の公立中学と私立の進学校だと内部の多様性が違う、などはある。そこもまたカテゴリーの種類による構成員のバラエティという点で共通していると思う)
一方で、カテゴリーの内側では独自の雰囲気や文化、価値観などが育まれることが多いが、外部からの視点がなければ、その独自性は意識されにくい。
学校の例で言えば、他校の生徒と話してみて初めて、自分の学校の校則や行事がだいぶ変わっていることに気づく、というようなものだ。

この理屈を今回のAさんの話に適用してみる。

Aさんが属する【腐女子】というカテゴリーには、年齢も職業もさまざまな人がいるが、それらは「些末なこと」である。Aさんも年下のフォロワーと年齢関係なく同じように盛り上がっていた。
一方で、【腐女子】の文化にはそれ以外のカテゴリー、たとえば【32歳】とは異なるものも多いのだが、【腐女子】の内側で生きてきたAさんはそのことに無自覚だった。
だが、今回Aさんは友人との集まりで【32歳】という外部の視点を知り、自分を【32歳】のカテゴリーにおいてみて、その構成員として「ふさわしくない」ことを自覚してショックを受けた。

こういう話だと解釈した。


Aさんがこの先どういう生き方をされるのか、私にはわからない。
ただ、彼女がただの【32歳】でも【腐女子】でもなく、その両方として生きる「32歳腐女子」である以上、どちらも否定せずに暮らしていけたらいいよねと、同世代オタクとして思わずにはいられない。

32腐女子04


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