ヒプノシスマイク4thライブでGADOROに殴られたので「迷宮壁」と神宮寺寂雷のことを書く

はじめに

昨日(2019/09/07)、大阪城ホールで行われたヒプノシスマイクの4thライブに行った。
詳しいレポや感想は既にたくさんあると思うので一言だけ言うと、最高のライブだった。

そんな中、強く印象に残ったのが、ゲストとして出演されたGADOROさん(以下敬称略)のパフォーマンスだ。
それまで私はGADOROのことは、神宮寺寂雷のソロ曲「迷宮壁」の作詞者だという程度にしか知らなかったのだが、終盤のMCで思わず涙が出るほど彼に「殴られた」。
そして、今回のライブの後に「迷宮壁」を改めて聴くと、いろいろと思うところがでてきたので、それについて書く。

おことわりとして、
①ヒップホップ門外漢の素朴な感想であること
②個人の解釈・思い込み・色眼鏡が含まれること
③人によっては寂雷先生へのdisと感じる可能性がある文章が含まれること
以上を踏まえた上で、本編を読んでいただければ幸いである。


「クズ」と「迷宮壁」

今回のライブでは、GADOROの代表曲だという「クズ」が披露された。
そこで語られる彼のリアルは切実で、本当にむき出しの魂で我々聴衆にぶつかってきていると感じたし、その熱量で火傷した気がした。
そして、(客観的に見た程度はさておき)自分のことを心底クズと思ったことがある、そう思ってしまうほどの「地獄を見た」ことがある(少なくとも自分でそう思っている)人なら、陰キャだろうがヤンキーだろうが共感できるのが「クズ」という曲だとも感じた。

それと同時に、GADOROが手掛けた「迷宮壁」は、かなりの部分がこの「クズ」と重なっていることにも気づいた。
単純な歌詞の比較でも、

今に見とけって何度、口にしただろうか(クズ)
今に見とけではなく今の私を見てくれ(迷宮壁)
最後ぐらい笑って散りたい(クズ)
この身一つで死ぬ直前には笑いたい(迷宮壁)

など、フレーズが重なる部分がいくつもある。

さらに、ライブでのMCの中に、
「努力は決して裏切らない……という言葉に裏切られ続けてきた」
といった内容の言葉が出てきたのだが、これは「迷宮壁」の

幾度となく流してきた血や涙、それらはいつしか糧となり力となる。とは、決して言い難い

と同じレトリックだった(三回ほど「努力は決して裏切らない」と繰り返し、会場が賛同の歓声で満たされてからの「という言葉に裏切られ続けてきた」の流れは強烈だった)。

これは私の勝手な解釈だけど、「迷宮壁」はGADOROが「神宮寺寂雷」というキャラクターの口を借りたからこそ語りえた、彼自身のリアルなのではないか。

MCの中でGADOROは寂雷先生について「神宮寺寂雷先生みたいなかっこいい人生(を歩めないとしても)」みたいなことを語っていた。
「迷宮壁」の後半に出てくる力強い言葉の数々は、生身のラッパーとしては「かっこよすぎて」自分ごととして語りえないものなのかもしれない。
でも、寂雷先生のようなフィクションの存在ならば、そういった言葉をリアルに、説得力を持って語ることができる。
だからこそ、GADOROは寂雷先生を(自分と同じように)「地獄を見た」人と解釈した上で、GADORO自身が「かく在りたい」と考える(現実にはそう簡単にはできないような)強い生き様を寂雷先生に語らせたのではないだろうか。


「迷宮壁の神宮寺寂雷」と「シナリオの神宮寺寂雷」

今回のライブの後、改めて「迷宮壁」を聴いていて思ったのは、

「迷宮壁の寂雷先生と本編(CDのドラマパートやコミカライズなどのシナリオ)の寂雷先生、だいぶ別人だな???」

ということだ。

迷宮壁の寂雷先生は、一言でいうと「求道者」である。
この世の不条理への怒りや絶望を抱えながらも、「一筋の光明」に手を伸ばして前に進もうと地獄の底であがいている、悩める個人だ。
でも、シナリオ上の寂雷先生はそうではない。

私はシナリオの神宮寺寂雷のことを「地獄の底に蜘蛛の糸を垂らす男」だと思っている。
より正確に言うなら、
「自分が『糸を垂らす側』であることに何の疑いも持っていない、無垢なまでに傲慢な男」
だと思っている。

このキャラクター解釈の原点となっているのが、シンジュクCDのドラマトラックだ。

この話の中で寂雷先生が一二三のストーカーに対して「治療を施した」ことが、私の中でムチャクチャ衝撃だったのだ。
当時書いた感想をそのまま引用してみる。

そして一番「おまえそれでいいのか?」ってなったのがストーカーとのやりとりですよ。これは医者として云々以前に作戦として「あなたの行動は常軌を逸している」とか「あなたを治しにきました」とか(完全にうろ覚え)直球すぎるよ!!もっと言葉選ぼうよ!!!
私の中にある「常識」では、メンタル系の治療というのは、まず患者の言い分を否定せず聴いて思考の整理を促して少しずつ患者自身の変容を促すもので、今回のように頭から否定するのは悪手もいいところということになってるのね。
だからストーカーの「私の一二三への愛を病気だって言うの!?」(うろ覚え)って言葉には共感しかなかった。端から見たらどんなに「異常」で「病的」な思考や感情、行動であっても、当人の中には何らかの理由や理屈があるんだから、それを無視して「正常」の物差しを押し当てるのは乱暴すぎる。自傷他害のリスクを取り除いた上で患者の訴えや理屈に寄り添い、それらを共同作業で検討していく、というのが私の「常識」だった。
そして、そんな「常識」を破る最大の要因がヒプノシスマイクによる「治療」ですよ。これは他の人たちも言うてはったけど、洗脳ですよあれは。精神に干渉するラップに乗せた自分の言葉=自分の意見・価値観を相手の頭に流し込んで「正常」にしてしまう。患者を治すというより力でねじ伏せると言った方がいいんじゃないか。
個人的に、マイクによる治療は患者から「病を奪う」行為だと思う。今回の例で言えば、ストーカーは寂雷先生に「毒気を抜かれて」しまったけど、彼女が抱えていた「病的な」愛情は彼女自身のもの、彼女の一部だったはずで、自力でそれと折り合いをつけるのは彼女の義務であり権利でもあったんじゃないか。マイクによる「治療」は、彼女を無力化して主体性を奪う行為ではないのか。

シナリオの中で寂雷先生が「治療」したストーカーは、広義の「クズ」に当てはまると思う。つまり、GADOROや「迷宮壁」の寂雷先生のような、「地獄を見た」人の一人だ。
だが、寂雷先生は「クズ」から「病を奪う」。自分の意見や価値観を流し込んで「正常」な「真人間」にして、「地獄」から釣り上げてしまう。
私はそれをとてつもない暴力だと感じるけど、シナリオの寂雷先生は自分の暴力性に全く無頓着に見えるし、自分の行いをまるで省みていないようにも見える(少なくとも現時点では)。

このような「無垢で傲慢な救済」を与える者としての「シナリオの神宮寺寂雷」と、「正解はない、だが追い求め走りたい。」と語る、自分に確証が持てないままもがく「迷宮壁の神宮寺寂雷」とは、かなりキャラクターとして乖離しているように見える。
ヒプノシスマイクというコンテンツは、楽曲提供者・シナリオライター・演者である声優など、複数の制作者に作られているから、ある程度のキャラぶれは仕様だと思っている。
でも、ライブでのGADOROのひりつくようなパフォーマンスを観た後の私としては、彼はシナリオの寂雷先生のことは「かっこいい」と思わないんじゃないかな、と考えずにはいられない。


迷宮壁を「拝む」聴衆と、彼らの「救済」の捉え方

もう一つ、私が不思議に思うのが、ライブにおける「迷宮壁」の鑑賞のされ方だ。

これは2ndライブの時からだったのだが、「迷宮壁」を聴いている時の聴衆はステージを「拝んでいる」。Twitterなどでも「神々しかった」「拝んだ」「迷宮壁は宗教」といったコメントが多数見られる。
会場の雰囲気としては、
「荘厳なオケ! 速水奨氏の圧倒的存在感! 拝まずにはいられないッ!」
みたいな感じで、さながら速水氏(の向こう側にいる神宮寺寂雷)が施す救済を額づいて受け取る民草の図である。

だが、リリックという観点から見れば、迷宮壁は決して聴衆に「救済」を与える曲ではない。そうではなくて、「救われなさ」の渦中にいる存在の足掻き叫ぶさまを歌った曲だ。

にもかかわらず、なぜ聴衆は迷宮壁を賛美歌のように受け止めてしまうのだろうか。
すでに述べたオケの荘厳さや速水氏の表現力なども大きな要因だと思うが、一番大きいのは
「神宮寺寂雷という存在自体が『救済者』とみなされているから」
ということではないだろうか。
救済者である寂雷先生が発する歌であれば、たとえ歌詞がどうであれ聴衆に救いと信仰をもたらしてしまう……みたいな理屈だ。

ここからは完全に個人の解釈や価値観の話になる。
前節でも書いたように、私は寂雷先生がもたらす「救済」は「蹂躙」とか「暴力」とほぼ同義だと思っているのだけど、人によってはそうならないらしい。
これは私の推測だが、神宮寺寂雷という男の、私が「傲慢さ」と感じている部分を、「揺るぎなさ」と肯定的に受け止めている人たちが一定数いるのだと思う。
揺るぎない寂雷先生は「信仰したくなる」存在だし、彼が「救済」をもたらしてくれることを望んでいる――そういう人たちが「迷宮壁」を「賛美歌」にしているのではないだろうか。

そういう捉え方が正しいとか間違っているとか言うつもりは一切ない。
多様な解釈こそがコンテンツを豊かにする力だ。
ただ、その多様な解釈の一つとして、私は「迷宮壁」を救済の賛美歌とは思わないし、神宮寺寂雷を信仰しないというだけの話である。


おわりに

私は神宮寺寂雷というキャラクターのことを、とても興味深いと思っている。
無自覚に傲慢で自分本位(このへんは今回あまり言及できなかったけど)な「やべーやつ」というのが彼に対しての現時点での印象で、それこそが彼の個性の中核だと思っている。

でも、今回のライブを経て、「迷宮壁」の寂雷先生がそのままシナリオに出てきていたらどうなっていただろう、とも思うようになった。
多分、今とはぜんぜん違う視点から彼を見ることになっただろうし、今とはぜんぜん違う感情を抱いたと思う。

また、今回GADOROのパフォーマンスを見られて本当に良かった。
「クズ」をはじめとする楽曲とMCに殴られたし、「クズ」と「迷宮壁」のリンクを知ったことで「迷宮壁」に対する見方もより深まった気がする。
他の楽曲もたくさん聴いてみたいと思った。

そして、こんな長文を書きたくなるほど私の心を揺さぶるものをたくさん持っているヒプノシスマイクというコンテンツは、やっぱりすごい。
いろいろ思うところはあるけど、まだまだ追いかけていきたい。

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