映画すみっコぐらしは「次元の壁」を越えた物語だ【ネタバレ】

はじめに

「映画 すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ」を観た。

Twitterなどで「大人だけど泣いた」という感想をたくさん見かけ興味を持ったので、原作である「すみっコぐらし」というキャラクターのことはほとんど知らないまま劇場へ行った。
泣いた。
中盤から涙腺が緩み始め、クライマックスからエンドロールに至るまではもう滂沱の涙、厚手のハンカチを持ってこなかったことを悔やむレベルだった。

すでに多くの人がさまざまな感想・考察を書かれていると思うが、この記事では「次元の壁」という視点から「映画すみっコぐらし」を振り返ってみる。

ここから先の文章は、映画本編の内容を前提に書かれたものである。当然ネタバレが多く含まれる(し、観てないと何を言ってるかわからないと思う)ので、まだ観ていない方はぜひ先に映画を観ていただきたい。マジでいい話なので。あとキャラがかわいい。私は映画館出たその足でゲーセン行ってぺんぎん?のぬいぐるみを取ってきた。


絵本の中と外を隔てる「次元の壁」の強固さ

私にとって一番印象的だった場面は、自分は『すみっコ』たちが暮らす世界(以下【外の世界】)へ出られないことを悟った『ひよこ?』が、塔の下ですみっコたちを見送るシーンだ。

【外の世界】と、ひよこ?が生み落とされた【絵本の世界】をつなぐ穴は、残酷なほど厳密に「中のもの」と「外のもの」を選り分ける。
ひよこ?も、にせつむりがかぶっていた巻き貝も、穴を通ろうとしても「次元の壁」とでも言うべきバリアにはじかれてしまう。

そして、すみっコたちがひよこ?との「『なかま』のしるし」として一緒に頭に飾った花も、「次元の壁」に阻まれ、すみっコたちが消えた塔のてっぺんから花びらとなって舞い落ちるのだ。
個人的にはこれが一番こたえた。

これがよくある話なら、花だけは【外の世界】に持って帰れて、離れていても自分たちは「なかま」だよ、という終わり方になっていたと思う。
だが、「映画すみっコぐらし」はそれを許さない。
【絵本の世界】は、強固な「次元の壁」で【外の世界】と隔てられており、そこからは思い出の品すら持っていけない。
花びらが降るシーンは、起こっていることの切なさと絵面としての美しさが一緒くたになって、涙なしには観られなかった。

「創造主」としてのすみっコと「+1次元」にいることの権力性

すみっコたちは【外の世界】に戻ってこれたが、ひよこ?は絵本の白紙ページでひとりぼっちのままだった。だが、そんな寂しすぎる結末では物語は終わらない。
すみっコたちは、白紙ページに自分たちを模したキャラクターや家や自然を描き加え、【絵本の世界】にひよこ?の「なかま」や「おうち」をつくったのだ。
そしてエンドロールでは、ひよこ?が彼ら(すみっコ’とでも言うべきか)と楽しく過ごしている様子が描かれ、私は「よかったねえよかったねえ」と涙した。

だが、よくよく考えると、これは割と強烈な描写だと思う。
【外の世界】に存在する絵本にすみっコたちが絵を描き加えることで、【絵本の世界】全体に影響を及ぼすことができたということは、いわば「世界への介入」だ。
変な言い方をすれば、すみっコたちは【絵本の世界】に対して「創造主」のように振る舞った、とも表現できるだろう。

そんなことができるのは、【外の世界】が【絵本の世界】の文字通り「外側」に存在する世界、いわば「『+1次元』の世界」だからだ。
【外の世界】の住人は【絵本の世界】全体を外側から覗き込めるし、描き込みをすることで「世界を変える」ことだってできる。
つまり、「+1次元」にいる限り、すみっコたちはひよこ?(をはじめとした【絵本の世界】の住人)に対して、圧倒的な「権力」を持っているのだ。

そして、ここで私たちは気づく。
映画の中における【外の世界】と【絵本の世界】の関係は、私たちの日常における【現実世界】と【すみっコぐらしの世界】と同じなのだ。

「-1次元」世界からの影響、そしてすみっコたちが持ち帰ったもの

現実における【すみっコぐらしの世界】は、私たちが暮らす【現実世界】に存在するキャラクター会社の企画として「創造」された、いわば(私たちから見て)「-1次元」の世界である。

【現実世界】の住人は、【すみっコぐらしの世界】に対して明らかに「強い」立場にいる。
すみっコたちを生み出した会社の人たちは(ひどい言い方をすれば)彼らの生殺与奪を握っているし、我々一般消費者だって、「キャラクター設定」として公開されている情報から、すみっコたちのことを彼ら以上に(彼らが秘密にしているようなことまで)知っている。

だが、すみっコたちは決して無力な存在ではない。

【すみっコぐらしの世界】の住人は、【現実世界】の住人のさまざまな感情を呼び起こす。
私たち【現実世界】の人間は、すみっコぐらしのかわいいグッズに癒やされたり、すみっこにいたくなる気持ちに共感したり、人によっては生きる力を分けてもらっているかもしれない。
つまり、【すみっコぐらしの世界】は決して【現実世界】から一方的に支配されているわけではなく、これら2つの世界は相互に影響を与えあっていると考えられる。

再び話を【絵本の世界】と【外の世界】に戻す。

すみっコたちは、絵本への描き込みという形で【絵本の世界】に介入≒影響を与えた。
だが、ひよこ?たち【絵本の世界】の住人は【外の世界】への介入を花びら一枚すら許されていない。ならば、ひよこ?は一方的にすみっコたちからの「神の恵み」を受け取るだけの存在なのか?

そんなわけはない。
ひよこ?はすみっコたちに、かけがえのない思い出を与えてくれた。

しろくまは、ひよこ?にふろしきを貸してあげた時に感じた寒さと「ありがとう」の温かさを覚えているだろう。
ぺんぎん?は、ひよこ?と一緒にはしゃいだことも、ひよこ?のために流した涙のことも大事な思い出にするだろう。
ねこもとかげもとんかつも、ひよこ?たちと食べたおにぎりの味を、決して忘れないだろう。

そういった形のない、でも大切な「感情」を、すみっコたちは次元の壁を越えて「+1次元の世界」へ持ち帰ったのだ。
これはまぎれもないハッピーエンドではないだろうか。

おわりに

「映画すみっコぐらし」を「次元の壁」という視点から振り返ってみた。

【すみっコぐらしの世界】に限らず、世の中のフィクションコンテンツの【世界】の中の存在は、私たちのいる「+1次元」には決してやってこれない。「次元の壁」はどうしようもないほど分厚い。

それでも、私たちは「ー1次元」に「入り込む」ことができる。
すみっコたちが【絵本の世界】に入ったのと全く同じの方法はとれなくても、【世界】を深く知り、物語に没入することで、そこを訪ねることができる。
そして、【世界】から得たさまざまな目に見えないもの、形のないものを持ち帰って、それを糧にして「+1次元」でまた生きていく。

「映画すみっコぐらし」は、そんな「次元の越え方」を教えてくれる話でもあった。
このような映画を劇場で観られたことを、とても嬉しく思う。


余談

「映画すみっコぐらし」のように、「次元を越える」ことがテーマのフィクションとして、2013年放送の「泣くな、はらちゃん」というドラマがある。

笑えるコメディでありながら「物語とは何か」「この世界で生きるとはどういうことか」といった根源的なテーマを扱った名作だと思う。
もし機会があったらぜひ観てみてほしい。

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