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霜降り明星に見るコントと漫才コントの言葉の違い その2

霜降り明星の指揮者のコントでのセリフ。

せいや「まずはアニメソングメドレー」
粗品「有名なアニソンとかやりますからね、オーケストラで」

このコントを見た多くの人間の中でここに引っかかりを覚えたのは私だけかも知れない。
ここの何に引っかかるものを感じたのか。私が感じた引っかかりの原因。それは

『このセリフが誰に向けて言った言葉なのか解らない』

その前の粗品のセリフはコント内での友人「せいや」に向かって言っていた。せいやが出てくる前のシチュエーション説明のセリフも隣の席にいる(マイム上の)友人に言っているものに見えた。口調もフランクだったりツッコミ特有の荒っぽさも全て友達に向けてのタメ後口調だった。

しかし、このセリフには「~やりますからね」と、明らかにタメ語ではない口調が混ざってる。学生特有の先生に向けるようなフランクな敬語なのだ。となると、この言葉の矢印の先には教師もしくは保護者が居なくてはならない。しかし、ここまでに大人の存在を示唆するものはなく、その後もないのだ。

このセリフ(私は)コントでは違和感を覚えたが、違和感のないやり取りになるシチュエーションもある。それはこれが漫才だった場合だ。コントだと舞台上にいる人物(マイムによる透明人間も含む)だけとしか会話できない。しかし、漫才内でのコントだとコントの中に出てくる人間以外に物語の外の人間「見ている客」との会話も発生する。このセリフは物語の外の人間・客に向けてのセリフとすれば成立するのだ。敬語の加減も明らかにお客様に向けてのものなのだ。

2人+見えない誰かの物語の世界に、物語の外に向けての言葉があると見ている人間に余計な引っかかりを与える。それは明確にセリフを飛ばした矢印の先ではなく言葉使いから掴むニュアンスも出てくる。例えば先ほどのセリフではもう一人客席にいる友達に対して「アニソンやるとこ、多いよな」のようなものにすればこの引っかかりは無かったのだろう。

漫才のコミュニケーションはよく三角形と形容される。ボケの人間、ツッコミの人間、お客様の3つだ。言葉や動きのコミュニケーションがこの三者間で成立しているのが漫才の特徴だ。しかし、コントは基本舞台上の2人と物語に出てくるマイム人物だけで、そこに物語外の人物は基本的に介入しない。だからその存在を匂わしてはいけないのだ。去年末のM-1で漫才か否か論争があったが、私の言葉の捉え方とコミュニケーションの三角形からすればマヂラブのは漫才だ。ちゃんと物語の外に人がいることを前提としている。挨拶やツカミもそうだが、ツッコミの村上さんがきちんと観客との橋渡しを行っていた。これで村上さんが橋渡し役ではなく物語の人物であることには専念したらコントになる。漫才における最初のツカミの部分や自己紹介の部分が重要なのはお客さんの笑いを掴むだけでなく「これからの2人のやり取りにはお客様がいる」という前提を明示する役割を担っていると私は考えている。

漫才コントとコント、この2つは同じように受け取られる部分もあるが明確に違う点も多い。セット・衣装・音楽はもちろんだが、言葉としてとらえた時も明確に違いがあると考えている。だからこそセリフも同じ内容でもそれぞれに適した言い方にしていかないといけない。今回はたまたま明確に感じた引っかかりだが、注視してないから気付いてないだけで、このような違和感は多々あるのかも知れない(今回は好きだから集中していたのと、公演用にセリフのアレコレを考えてた時期に見たから感じたというのが大きい)

私が(クオリティーはさておき)漫才が書けてコント・戯曲が書けないのは観客に今のシチュエーションを言葉で説明しないと不安になって書き進められないと言うのがある。普段の文章公演パンフも基本的に『まず大前提を言葉で説明してから発展させる』という形が多いし得意だ。漫才もシナリオに起こすと基本的に前提・シチュエーションを説明してから発展させる形式が主だ。

今後自分が戯曲に挑戦する時は言葉で説明しないことに恐れず、ニュアンスから見える矢印の方向にも十分に注意して行かなくてはいけない。

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