見出し画像

わたしのヒーロー

わたしの初めては、小学5年生のときです。

一般的に早いぐらいだったと思います。
すでに、当時の同級生にも1人か2人経験者が居るのは知っていたけれど、悩みを打ち明けることはできませんでした。

想像以上の痛みに泣いてもがきましたが、助けはありません。
ただ、「はやく終われ」と念じるばかりでした。喜びはひとつも感じられず、ベッドのシーツを握りしめて、痛みを逃すことだけに神経を集中させていました。しかしながら、痛みに堪え、痛みから逃れようとすればするほど、思考は痛みに支配されて、より一層痛みが増していくようでした。
ドクドクと血の流れを感じることもありました。
どろり、と得体の知れないナニカが性器の間を伝っていくことさえありました。
「終われ」「終われ」と願っても、時間は無慈悲で、いつもよりゆっくりゆっくり進んでいくのです。

目を覚ますとベッドの脇に父と姉がいて、心配そうにこちらを覗き込んでいたことをよく覚えています。
泣きながら寝てしまったようでした。
父は青いパッケージの大人用の頭痛薬を、
姉は黄色いパッケージの子供用の鎮痛剤を、それぞれ帰りしなに買ってきてくれていました。それぞれ同時に、カバンから取り出したときの2人の困った顔がなんだかおかしくて、下腹部の違和感を抱えながらも笑ってしまったのです。

それから、ほとんど毎月、その痛みはやってきました。

あまりの痛みに、たびたび学校を休みました。

最初はあんなにも心配してくれていた父でしたが、次第に疑うようになりました。

「ほんとにそんなに痛いのか?」
「かまってほしいだけなんじゃないか?」
「頭も痛い、お腹も痛い。絵本に出てくるウソつきのセリフだな」
「みんな我慢できてるのに、なんでできないんだ?」
「学校を休まなきゃいけないぐらい痛いなら救急車を呼んでみろ。呼ばないなら痛いのはウソだ」
「ずる休みしたいだけだろう!」

父の声は、半分も聞き取れませんでした。頭が痛くて、本当に痛くて、耳から入った情報を頭で処理することも困難だったのです。けれど怒られていることと、信用されていないことは分かりますから、悲しくてたくさん泣きました。おそらく、情緒も不安定になっていたのだと思います。泣けば泣くほど、一層、頭痛は酷くなります。

「泣けばいいと思ってるのか!」
「泣いても許さんからな!」
「そんなに演技が上手ならいっそ学校を辞めて女優にでもなったらどうだ?」
「嘘つきもそこまでなれば立派なもんだな」

父に見えているのは、わたしの痛がる演技、泣く演技。

「演技なんかじゃない、本当につらいの」

なんど言ったって、伝わりません。
次第にわたしも、弁明は諦めました。
弁明するエネルギーも惜しいほど、頭とお腹が痛いのです。喉を枯らして泣いて弁明すると、余計に痛みが増すのです。父の声など無視して、布団にくるまって眠ってしまった方が、いくらかマシでした。
父とは、分かり合えないのだと思いました。それが男性だからなのか、父個人の特性が要因なのか、わたしはわかりませんでした。ただ、父を諦めることにしたのです。しかたないと思うようにしました。

それが、中学生になって、しばらくしてからのことでした。

一方、あの日同じように薬を差し入れてくれた姉は、静観していました。
姉自身、あまり生理痛が辛い方ではありませんでした。ただ、女子校に在籍していたこともあって、いろんな生理のケースを知っていました。クラスに40人、学年に200人、女子だらけ。毎日だれかが生理なわけです。ナプキンから血が漏れてしまう子、生理痛で欠席してしまう子、貧血で倒れてしまう子、とくに症状がない子。姉はよくよく知っていました。
だから、「生理痛で学校を休む子も割といるよね。妹の主張が本当か嘘か、わたしには分からないけど」と述べていました。
姉の答弁はもっともです。
①事実として、生理が重たい子は居る。
②わたしの主張が事実かどうかは、本人ではないから判別つかない。
2点とも、なんの誤りもありません。
姉は常に事実に基づいて、論理的に話を展開するひとです。そして、姉にとって不利益な主張は絶対にしません。
理由もなくわたしの味方をしてくれるひとではないのです。
父が「ほうらやっぱり」という顔をしていても、父の解釈がどんなものであっても、姉は訂正しません。姉に利益がないためです。
わたしは姉のことも、早々に諦めました。
期待したって、しかたないのです。なんともならないのですから。

わたしが頭痛と腹痛と腰痛に堪えかねて、うめき声をあげては眠り、泣いては眠りを繰り返している間。父は仕事へ行き、姉も出かけていました。わたしはひとりでいることもあれば、祖母が付き添ってくれることもありました。
祖母もはじめはわたしがずる休みしているのではないかと疑っていましたが、次第に心配して、いくつもの病院へ連れていってくれました。
「何時間もうめいているのに、演技なわけない」
「2,3時間で薬が切れて痛いと泣いてるんだから」
「間近で見ていればわかる、本当につらそうだ」
「学校を休むなんてよっぽどのこと」
と、とても親身になってくれました。
内科や婦人科に、車で遠くまで連れていってくれました。3時間も4時間も、一緒に待合室で付き添ってくれました。
そうして高校1年生の秋頃。
祖母のおかげで、とある病院の治療を受け、快方へ向かうのです。

それが、低容量ピルの処方でした。
今でこそ月経困難症のホルモン治療としてよく認知されていると思います。
しかし当時はまだ、避妊薬としてのイメージが強く、「ピルを飲んでいる」なんて誰にも言ってはいけないことでした。
仲の良い友人にこっそり話したって、「遊んでるらしい」という噂が流れてしまうような、そういう偏見が残っていたのです。

十代の女の子でさえ、そんな認識です。
四十代の母の世代は、おそらくもっと濃い偏見があったことでしょう。
父は複雑そうにしつつも、「学校を休まないんなら…」と理解を示してくれました。
しかし母は大層憤りました。怒り狂ったと言ってもいいほどです。
「彼氏がいるんだろう」
「相手はどんなやつだ、ろくでもないやつなのか」
「不特定多数と遊んでるんじゃないか」
「後ろめたいことがあるにちがいない」
「絶対に突き止めてやる」
「母親を騙せると思うなよクソガキ!」
と、本当に大変でした。もっと酷い言葉もたくさん言われましたが、あまり思い出したくない記憶です。
母の理解は得られない。これもしかたないことだと思いました。諦めるしかありません。

そうして母が憤ると、祖母もつられてしまいました。母に説得されたようでした。
「おばあちゃんを騙していたのか!」
と、祖母も怒って、話が通じません。しかたありません。

そうして、わたしは誰のことも諦めてしまったのです。
もちろん治療は中断となり、とうぜん、痛みは再来しました。

それから数年、代わる代わる、父が味方してくれることもありましたし、姉が助言してくれることもありましたし、再び祖母が寄り添ってくれることもありましたが、結局は元の木阿弥。解決されないまま、学生生活を終えるのでした。

わたしは大人になりました。
自分の力で病院に行き、治療を受けることができます。
それでもときどきやってくる痛みに堪えかねて仕事を休んだって、ルールさえ守っていれば咎められることはありません。

どうしても休めないある日。タンポンを入れて、強い痛み止めを飲んで踏ん張っていると、うっかり嘔吐して倒れたこともあります。
けれどもまぁ、しかたがないのです。
そういう身体と付き合っていくしかないのです。しかたない。しかたない。わたしはすっかり、自分のことも諦めてしまいました。

運良く仕事を休めた日。大きい夜用ナプキンの上をつたう、ドロっと経血にひやりとする。いつものことです。
タンポンはどうやらわたしの身体に合わないようで、就寝時に備えることはできません(そもそも、長時間向きの生理用品ではありませんが)。

痛い。しかたない。痛い。
しかたない。痛い。しかたない。
痛い。しかたない。痛い。

あぁ、やだなぁ。しかたないと分かっているのに。痛いなぁ。
浅い眠りから覚めたとき、初めて見る生理用品がテーブルにありました。

シンクロフィット、というそうです。
友人から勧められたこともありましたし、アイドルが宣伝しているのも知っていましたが、実物は初めて手にします。
前々から気になっていたのです。

「それやろ、使ってみたい言うてたん」

なんてことないように、彼が声をかけてくれました。仕事帰りに、わたしのために買ってきてくれたようです。恥ずかしかっただろうに、薬局の生理用品コーナーでわざわざ探してきてくれたようです。
冷蔵庫にはゼリーもありました。一番好きな、桃のゼリーです。

シンクロフィットを早速使って、サラサラのナプキンに身をゆだねると、頭痛がやわらいでいく気がしました。

桃のゼリーを食べて、鎮痛薬を飲んで、またひと眠り。

「ご飯食べれそうになったら言いや、買ってくるから」

うん。まどろみながら、返事をしました。ドロっと経血は流れてきません。「しかたない」はずのことが、取り除かれた眠りです。

「おやすみ」

あぁ、ヒーローだ。夢うつつに、けれど確かに思いました。

諦めなくていい、
しかたなくなんてない、
わたしだけのヒーローがいたのです。

たったそれだけのことで、わたしは世界を諦めずにいられるのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?