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神が与えるいのちの輝き(ヨハネ福音書1:1-14)12月23日 燭火礼拝メッセージ


【新しい創造】
ヨハネの福音書は「はじめにことばがあった」という不思議な一文から始まります。「はじめに・・・」という出だしは創世記1章の「はじめに神は天と地を造られた」を思い起こさせます。ヨハネもそれを意識して、このフレーズを使ったと思います。この天地創造には「ことば」が関わったと言います。そして、これから新たな歴史が始まる。新たな世界がやって来る、新しい創造がはじまるという宣言をしています。ヨハネはロゴスという単語を使っています。ここではイエス・キリストを指します。恐らくヨハネはギリシャ哲学に精通していて、ロゴスがという単語の超自然的で崇高な理念や宇宙の原則というような意味で使われていることを知っていたかもしれません。しかし、ロゴスとは単に超自然的な原理や理性というのものではなく、世界を造られ、私たちに「いのち」を与えてくださった方だと言います。14節では、ロゴスである方は、「人となって、私たちの間に住まわれた」と言います。神である方が人となって私たちの前に現れました。まだ、イエス・キリストという言葉はでてきませんが、この方こそ「ひとり子」の神であり、まことの神を私たちにはっきりと教えてくださる方だと宣言します。

【光】
4節には、「この方には「いのち」があった。この「いのち」は人の光であった」とあります。イエス様は、ヨハネによる福音書8章12節で「わたしは世の光である。わたしは世の光である。わたしに従う者は、やみの中を歩むことがなく、「いのち」の光を持つのである」と仰っています。
イエス・キリストが持っていらっしゃる、そして私たちに与えてくださる「いのち」は、私たちの光です。私たちを照らす光であり、世界を照らす光でもあります。ローマ帝国に支配され、未だに囚われの身にあるイスラエルに照らされる希望の光です。絶望しながらも、メシアがやって来るのを待っているイスラエルに照らされた希望の光です。それは21世紀を生きる私たちを照らす光でもあります。その光の意味はイエス様の死と復活によって完全に明らかにされました。その光は、それまで暗闇の中に隠されていた真理を明らかにします。その真理とはなんでしょうか。その真理とは「いのち」です。私たちの希望はそのいのちの中にあります。
 
【「いのち」】
この光によってあらわされたのは「いのち」です。今日のメッセージのポイントは「いのち」です。この「いのち」は「永遠のいのち」と呼ぶことができます。「永遠のいのち」という時、死後の世界とか復活した後の「いのち」とかを意味しているわけではありません。「いのち」とは、私たちの全存在のことを言います。永遠なる神様と親しい関係に生きることです。ですから、私たちも永遠の中に生きるのです。しかし、この「いのち」は、悪と罪の世界の中で、傷つけられてしまいました。イエス様の光に包まれる時、私たちは自分の傷、痛みを知るようになります。傷つけられた「いのち」、傷つけられた人間の存在、尊厳を、イエス様は回復してくださいます。それがイエス・キリストの復活のいのちです。イエス・キリストを信じるということは、イエス様とともに回復された永遠「いのち」を生きるということです。そして、イエス様はそのために地上に来られました。
イエス様がくださる「いのち」の原理は愛です。それはまた神の国の原理は愛と言っても良いでしょう。イエス様の弟子たちはメシアがやって来て、ローマ帝国を滅ぼす力強い王を期待していました。イエス様はそういう考えをことごとく否定します。それは愛と慈しみによって形作られる国です。私たちの全存在、全人格が愛と慈しみによって形作られます。それがこの方にある「いのち」です。イエス様の受肉を通して、ご自身のいのちの光の輝きが私たちに示されました。
その光は私たちの隠れた罪を露にして、私たちの心を突き刺すというよりは、私たちを温め、私たちの心を燃やす光です。神のいのちの光は、私たちの心を探り、私たちの癒されるべき傷、痛み、悲しみを教えてくださる光です。キリストが私たちに与える「いのち」「愛」は、自分の傷、惨めさ、弱さを認めながら、すべての人々と互いに抱擁していく愛です。そこに愛が輝きます。
アメリカやヨーロッパでは、クリスマスというと家族や友人との絆を確かめ合う時のようです。しかし、すべての人が家族や友人との絆や愛を感じるというわけではありません。クリスマスになると普段に増して悲しみや苦しみが増す人々もたくさんいるそうです。喜びではなく、苦しみの中にある人たちのために、苦しみの中にある人たちと共に、クリスマス・イブにささげられる礼拝があります。それをブルー・クリスマスと呼びます。今年も世界各地でブルー・クリスマスの礼拝がささげられています。
今捧げている燭火礼拝もブルー・クリスマスなのかもしれません。傷や悲しみを抱えたままで神様の元に集い、神の愛に憩い、癒されたいと思います。私たちの内にある神の愛、私たちには、わずかな光のように思えるかもしれません。その愛の光が確かに私たちのうちで輝いています。それをどう輝かせようとか思い悩む必要はありません。神のいのちの光はすでの私たちの内で輝いているからです。私たちは今日も、神のいのちをいただいている仲間とともに愛し合い、労わり合い、慰め合いながら、神様を礼拝したいと思います。

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