イエス-愛深き故に
ルカ 5:1-11
先週は、神の愛、キリストの愛がどのようなものかをお話ししました。何が起ころうとも、あなたへの、人間への愛は変わらないという話をしました。
今日の聖書の箇所は、ルカの福音書に書かれたイエスとペテロの初対面のシーンです。イエスに出会ったペテロは、自分の中に何か罪深さを感じました。そこで、イエスはペテロに言います。『恐れることはない』
「愛」を妨げるものは、「恐れ」です。
「恐れ」は私たち人間にとって必要で正常な感情です。とはいうものの、私たちの生活は恐れで満ちています。失敗を恐れます。無視されることを恐れます。経済的な安定を失うことを恐れます。生きることを恐れ、死を恐れます。ある人は、人と親密になることを恐れます。親密になって、その愛が裏切られることを恐れます。北斗の拳のサウザーに至っては、こう言います。「愛ゆえに人は悲しまなければならぬ」愛から離れ、恐れを感じないように生きようとします。
私たちは、愛を求めながら、愛を拒絶してしまいます。「愛」は素晴らしいと知りながら、愛に飛び込むのに躊躇してしまうのです。放蕩息子が、父の胸に飛び込むのを躊躇するようなものです。
「神は愛である」と信じているクリスチャンも例外ではありません。先週も紹介しましたが、デビッド・ベナーという神学者は10歳でキリスト教の信仰を持ちました。彼は自分の人生をこんな風に振り返っています。彼は10歳の頃から、「神に喜ばれる生き方を模索」してきました。その動機は、「神の罰を受けないようにする」ためでした。デビッド・ベナーにとって、神は恐怖の対象でしかありませんでした。「神に喜ばれよう」する時、私たちが信じているイエス・キリストの父なる神は、私たちを恐怖の虜にする神へと変わってしまいます。私はキリスト教の中でもプロテスタントの中で、福音派と呼ばれる教会でクリスチャン生活を送ってきました。その中でよく聞かれる言葉が、「神に喜ばれる」というフレーズです。
多くのクリスチャンの中に罪悪感が宿っています。キリスト教には、「恵み」という言葉があります。私は教会でこう習いました。「『恵み』とは、それに値しない人間に送られる神の恩寵、つまり慈しみ」である。多くのクリスチャンは、「こんなどうしようもない私を神は愛してくださる」と考えます。そして、「こんな私のためにイエス様は十字架についてくださって、罪を赦されたのに、いつまで経っても思っているようには成長しない自分を見ては、罪悪感を募らせ、神に申し訳ない」と感じるのです。確かにそうです。私もそう思います。自分は取るにたらない人間です。
しかし、しかしです。神が求めておられるのは、恐れではなく、友情です。親密さです。神が私たちに恵みをくださるのは、どこまでも私たち人間を愛しているからです。神への敬虔さを形作るのは、恐れや申し訳なさではなく、神を慕い求める心です。
イエスは十字架にかかるまで、弟子たちと一緒にいることをやめませんでした。彼に会いたいと願っている人たちのところに行きました。罪びとと呼ばれる人たちのところに行きました。一緒に食事をしました。お酒も飲みました。それはパーティーと言っていいでしょう。
イエスはペテロにはじめて会い、彼を弟子にしようとしたとき、ペテロは自分のことを「罪深い者だ」と言います。しかし、イエスは言います。「こわがらなくてもよい。」迫害が考えられる状況で、イエスは弟子たちに「恐れるな」と言われます。娘を亡くして悲しんでいるユダヤ教の指導者に「恐れるな」と言います。そして、「恐れるな」と何度も何度も弟子たちに、人々に言うのです。
人を縛り、人に劣等感を植え付け、私たちを恐怖の虜にしてしまう世界から、囚われている人間を自由にし、愛によってなりたつ世界を回復していく神の原理にて欲しいと願っていらっしゃいます。それが神の国です。
しかし、恐れたり、劣等感を持ったりすることが悪いことだというわけではありません。それは正常な心の働きです。ただ、神はそれで良いから私のところにおいでと呼んでいるのです。聖書を読みながら、祈りながら、今まで持っていた恐れ、劣等感、罪悪感が和らいでいくことがあるでしょう。しかし、またそれが襲ってくるでしょうし、それどころか、私たちが生きている間に、無くなることはないでしょう。無性に頭に来る時、泣きたい時、悔しい時、その度毎に、神に叫び、あるいは、神の胸に飛び込み、あるいは神に文句を言っても良い。私たちが「そのままの姿で」とか「そのままの自分で」ということはそういうことです。むしろ、その時に、いや、そういうことの連続の中に神の愛を、神の愛の温かみを感じることができます。
フィリップ・ヤンシーというクリスチャンの著述家がこう言っています。
「キリスト教の神は人を愛することに飽きることがない。罪人を愛し、失敗した人々の再出発を喜び、迷える羊を追い求め、放蕩息子を待ち続け、人生に傷つき道端に倒れている人たちを救い出す。キリストは人を愛することに飽きることはない。」
叫び、あるいは、胸に飛び込み、あるいは文句を言っても良いから、私のところに来て欲しいと、聖書はそういう神の願いにあふれています。だから、ヤンシーは「キリストは人を愛することに飽きることはない」と言えるのです。それを私たちは「神の愛」というのです。「神の愛」は変わることのない、神の感情です。そして、そのことがイエスの十字架と復活に現れました。セクシュアリティもジェンダーも人種もすべての壁が取り払われた神の国です。神が手を広げて、私たちを待っている場所です。誰が神のところにいけて、誰が行けないのかなどを決める門番はいません。
教会が門番となってはいけません。教会が「恐れ」を感じさせ、さらに「恐れ」を増幅させる場所ではあってはいけません。むしろ、恐れる人と共に、神の愛に飛び込む場所です。いや、恐れる人と共に、神の愛に飛び込む人々をつくり出す場所と言って良いでしょう。
私はこのメッセージを、デビッド・ベナーのSurrender to Love 「神の愛に降伏する」という本を参考しています。デビッド・ベナーのキリスト信仰の旅は、「神を喜ばせ」、そして「神の罰を受けないようにする」ことから始まりました。彼はその後の信仰生活で、恐怖の神は愛の神に変わっていきました。神がそう教えてくださいました。最終的に、放蕩息子のように、彼は「神の愛に降伏」する生き方に変わって行きました。私たちは今、「神の愛に降伏」する生き方を学ぼうとしています。「愛に降伏する」とはどういう意味でしょうか。それは、従順と違うのでしょうか。来週お話ししたいと思います。