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Calling

 手の小指は何のために存在するのだろう。
 子供の頃から疑問だった。親指、人差し指、中指、薬指は必要だと思う。でも小指は無くても問題ないんじゃないだろうか。モノを掴んだりするときに添えるだけ。他の四本が揃っていれば必要ないと思っていた。
 だから、いつか二十歳を迎えた日に失くすものは小指にしようと、そう決めていた。

「なぁ、マリン」
「ん?どしたぁ?」
 名門桜庭《さくらば》家が持つ豪邸の一つ。東京郊外にあるそこが今の俺の生活拠点だった。お抱えの庭師の手で丁寧に剪定された日本庭園を臨む広い和室。そこに置いてあるこれまたヴィンテージ物のソファーにだらしなく寝そべっている黒い猫耳パーカーのフードを被った少女。
 彼女こそ桜庭家に代々伝わる福音であり、信仰であり、呪い。
「マリンって何歳?」
「は?女子に年齢聞くとかデリカシーなさすぎ。これだから近頃の若いのは」
「その台詞が既に年増感マシマシだから」
 マリンと名乗る死神は、俺がこの家に生まれるずっとずっと昔からこの家に居た。見た目こそ現代のどこにでもいる女性と変わらないように見えるものの、れっきとした死神らしい。現に、桜庭家の人間以外には彼女の存在は映らない。先祖から伝わる“盟約”によって、直系の血筋の人間だけが彼女を認識することができる。
「てゆーか清司《セージ》さ、そろそろ決めた?何を差し出すか」
「まだ考え中だよ」
「あそ。まぁ二十歳の誕生日までまだ少し時間あるからゆっくり決めれば。くれるなら私はどこでもいいし」
「なるべく痛くしないでくれると嬉しい」
「部位による。あと言い方がキモい」
 にべもなくそう告げる彼女は手元のスマートフォンに夢中だった。死神という俗世間から逸脱した存在ではあるが現代の流行りだの娯楽には目ざとい。今着ている黒いパーカーも、なんとかっていう渋谷発信のブランド物だったはずだ。
 何歳?なんてさっき聞いたが、この桜庭家は千年以上続いている家系らしいから、彼女は少なくともそれ以上の時を生きているはず。さすがに日本のかの皇家には及ばないにしろ、千年もの間桜庭の家が栄えてきたのはひとえに彼女という死神との“盟約”あってのことだろう。命を取らない死神なんて聞いたことないが。
「なぁ、俺からとったものはどうするんだ?」
「あたしが美味しくいただくけど」
「死神ってやっぱり人を食べたりするのか」
「別に口に放り込んでムシャムシャ食べるわけじゃないけど。まぁ、あたし以外にそういうのがいるのも否定はできないか」
「死神っていうくらいなんだし命丸ごと持ってくもんかと」
「そうしたいのは山々だけどあんたのずぅぅぅぅっと昔のご先祖様との約束があんの。かったるいけど」
「じゃあこの先もずっとこの家に居座り続けるのかマリンは。やだなぁ」
「あ?」
「いやなんでも」


「清司、大学ではどうだ」
「これといって特に。成績表はそっちにも送ったでしょう」
「………そうか」
 珍しく別宅にやってきた父との夕餉は、普段マリンと二人でとっているものと比べてずっと重々しく息苦しい。まるで父がリビングいっぱいの海洋深層水でも連れて帰ってきたかのように。
 父は真っ当な人間ではあったが、あまり息子の自分を自由には育ててくれなかった人だ。毒親、とまでは思わないが、普通の家庭で育った子供が経験するようなこと―――漫画・アニメ・ゲームといった娯楽、学友たちとの交流だ―――に対しては禁止こそしなかったものの眉を顰め、ことあるごとに勉学を促してきた。多感な年頃には多少反発していた時期もあったが、結果として今日まで大きく学歴を落とすことなく大学でも問題なくキャンパスライフを送れているわけなので、父の教育は正しかったのだろうと今は思う。
 それもこれも、名門桜庭家の人間というレッテルが自分に貼られているからなのだということも、分かりすぎるほど分かっている。だからこそ、何の肩書も持たない、何者でもない同世代の友人たちが心底羨ましかった。
「お前ももうすぐ二十歳になるわけだが、マリンと話は済んでいるのか?」
「何を差し出すのかって?」
 二十歳の父は左耳をマリンに差し出した。耳と言っても鼓膜まで差し出したわけではないから聴力はそのままだし、髪を少し伸ばせば目立たないよう欠落を隠すこともできる。我が父ながら上手くやったものだと思う。
「何をくれてやるのかはお前の自由だが、なるべく失っても今後の人生に支障ないものを選べ。お前は桜庭家の—――」
「分かってるよ」
 “お前は桜庭家の大事な跡取りだ”。そんな言葉は子供の頃から耳にタコができるほど聞いてきた。そんなにお家の肩書だの家格だの血統だのが大切なのか?先祖がマリンと“盟約”を交わした千年前ならいざ知らず今のこの時代に?多少の格差はあれ今の時代は努力すれば全ての人間が平等に幸せを手に入れられるつくりになっているというのに。先祖の“盟約”だかなんだか知らないが、そんなものにいつまでも固執していたら未来に血筋は残せても桜庭家はどこにも行けないだろう。
「そういえば、そのマリンは居ないのか?」
「部屋でゲームでもしてるんじゃないかな」
「そうか、あれも相変わらずだな」
 父は昔を懐かしむように少しだけ笑みを浮かべた。若かりし頃の父とマリンの話はあまり聞いたことがないが、きっと今の自分が過ごしてきたものとさして変わりないものだったろう。あれは老いることも死ぬこともない、千年を生きる死神なのだから。


「ハッピーバースデー、セージ」
「まったく気持ちがこもっていない祝辞をありがとう」
 数日後、特に何のドラマも紆余曲折もなく、他の人と変わらない時間の流れに身を任せて俺は二十歳の誕生日を迎えた。
 マリンはと言えば特段普段と何か変わりがあるわけでもなく、朝の挨拶をするように心のこもっていない祝福を雑に投げつけてきただけ。本当に今日、桜庭清司という男は何かを失うのだろうか。
「で、何を差し出すかは決めた?」
「小指。左手の」
「献上動機は?」
「志望動機みたいに聞くな。だって、手の小指ってあんまり使わないじゃん。強いて言えばパソコンのタイプが少し面倒になるくらいだけど、その程度のもんだし」
「ふーん。まぁあんたがそう言うならあたしは別に文句ないけどね」
 それまで和室のソファーに寝ころんでいた死神は気分を変えるように勢いをつけて立ち上がると、真っすぐこちらに歩み寄り左手に触れた。
「———一応、聞いときたいんだけどさ」
「なんだ?」
「本当に小指でいいの?」
「なんだよ、文句ないんじゃなかったのか?」
「まぁ、あんたがいいならいいんだけどさ」
 
 そう言いつつも、マリンの表情はどこか物憂げに見えた。

▼▼▼

 むかしむかしのお話。
 今からだいたい千年前。
 後世で平安と呼ばれる時代に、あたしはそいつと出会った。

「あんた誰?」
「某は従四位下《じゅしいげ》右近衛中将《うこんえちゅうじょう》の風也ふうやと申す者。其方にお頼み申し上げたいことがある」
「一方的に呼びつけといてその上さらに頼み事ってどゆことよ」
「どうか某に、子種を授けていただきたいッ!」
「人の話聞いてんの!?」
 呪い《まじない》だか祈祷だか知らないけど、神頼みをしていたそいつの手順も内容も無茶苦茶な降霊術の類に偶然引っかかったのが運の尽きだった。それまで気ままに各地を飛び回って人の魂を戴いていた死神のあたしが、たかが一人の人間とその後千年先まで続く“盟約”を交わすことになったんだから。


「つまり、其方は神は神でも死神であって、某に子種を授けることもできないと?」
「見りゃ分かるでしょ、背中にこんな真っ黒い羽生えてるんだし。てかできないというか、そもそもなんであたしがそんなことアンタにしてあげなくちゃいけないの」
「某にはそれが無い故」
「理由になってないっつーの」
 当時としてはそれなりに贅の限りを尽くしている方だった風也の屋敷———そこの一室である広い座敷のど真ん中であたしはフワフワと宙に浮かんで、目の前で律儀に正座してこちらを見上げる男と延々押し問答を繰り広げていた。
 後の桜庭家の祖先になる風也には、次の世代に血を残す力が無かった。幼い頃に流行り病にかかったのが原因らしいけど、現代ほど医学が発達してない当時はよくある話だったし、不老不死の死神であるあたしからすれば意に介すまでもない事情。そこらにいる蟻が一匹踏みつぶされようが家族仲良く踏みつぶされようがそれを見ている人間には関係ないのと同じ。
「医者にも回復の見込み無しって言われたんでしょ?なら大人しく運命を受け入れなよ。大人なんだし」
「いいや、某には諦められぬ理由がある」
「何それ」
 興味はないがとりあえず聞いてみたんだけど。
「某の子がどんな人間に成るのか。それを見てみたい」
「んな軽い理由で家族を持とうとすんな!」
 風也はよく言えばフットワークが軽い、悪く言えば軽率なヤツだった。当時の日本社会では官位を授けられて結構な地位にいたからそういう意味で責任能力はあったんだけど。
「というか、あたし死神だし。人の命を奪うのが仕事であって習慣であって習性であるわけだし。何が悲しくて命を創らなきゃならないの」
「では某の命を捧げれば、其方は子種を授けてくれるのか?」
「いやそれ矛盾してるでしょ順序的に。自分の子が見たいって言ってるのに自分が死んじゃ意味ないっしょ」
「後払いということで如何か?」
「無理。というか、仮にアンタが子孫を残せるようになったとして、あたしに何の得があんのよ」
「———無いな!」
「開き直るなっ!もう帰るわ、じゃあね」
「待て待て待て!」
「痛い痛い痛い痛い痛いっ!髪引っ張んな!!」
「?某は其方の髪を掴んでなどいないが?」
「はぁ?何言ってんの」
 あくまでしらを切ろうとする風也に小言の百個でも言ってやろうと振り向いたが、確かに風也は手を伸ばしたくらいじゃとても届かないくらいのところにいた。
 もしかして。思い当たることがあり試しに数歩後ずさってみた。
「っ、ひ、引っ張られる。これやっぱり………」
「?」
「あんた、まさか“隷従”の術を仕込んであたしを呼んだんじゃないよね?」
「いや、術式は知り合いの祈祷師に用意してもらった故、その内容までは某は与り知らぬところ。何か不都合があったか?」
「大アリだわ!これじゃあたしアンタから離れられないじゃん!!」
「なに、そうなのか?」
 隷従の術は、ざっくり言えば召喚されたヤツを呼び出した術者の意思に逆らえなくする呪法。現代だとエロ本の題材にでも使われていそうなベタ中のベタな呪いだし、実際あたしもこの時まで存在自体眉唾なものだと思っていたんだけど。
「隷従と言うからには、もしや其方は某の思うがままということか?」
「はぁ?冗談じゃないんだけど。死神のあたしがたかが人間のアンタになんで従わなくちゃいけないのよ」
 そう虚勢を張ってはいたけど、内心ではかなりビビってた。そもそも人間とこうやって面と向かって問答するのだって初めてだったのに。あまつさえ死神として捕食対象でしかない人間に一体何をされるんだって。
 もしかしたら、そういうのがその時の風也にもバレてたのかもしれないけど。
「そうか、では一つ其方に願いたい」
「な、なによ」
 あいつは、それまでの佇まいを崩すようにニッコリと笑って。
「姉ちゃん、名はなんて言うんだ?」
「———マリン、だけど」


 風也は、あたしに何もしなかった。
 ただ隷従の術で傍を離れることもできなかったから、なし崩し的にあたしは風也と一緒に生活するようになって。あたしの姿はあたしを呼んだ風也にしか見えてなかったし触れることも風也にしかできなかったからその辺りの問題はなかったんだけど、死神であるあたしをあいつが全く都合よく使おうとしないことにかえってあたしは不信感を抱いていた。
「フーヤさ」
「ん?なんでぇマリン?」
 最初会ったときは堅物みたいな話し口調をしていたけど、素のあいつはこんな感じだった。仕事じゃそれなりの立場にいたからそういう振る舞いが自然と染みついちゃったんだろうけど。
「あんた、あたしをどうこうしようとか思わないの」
「どうこうってのは、何をどうしてこうしてそうするって話だ?」
「そうするとまでは言ってないし。可愛い女の子を好き勝手できるのに、何もしないのって話」
「可愛い女の子?どこにいるんだ?」
「は?可愛いだろ!?ここだよここ!!」
「んな怒んなって、冗談だから」
 こんな具合で聞いてもはぐらかされるし、こいつが何を考えてるのか死神のあたしでもよく分からなくて。これじゃただの飼い殺しだ。
「簡単な話だ。女を手にかけるような男は屑ってだけよ。俺は屑にはなりたくねぇ。あぁでも星屑にはなってみてぇかもなぁ」
「星屑って、それあんた死んでんじゃん」
「だははっ、違いねぇ」
「じゃあ、子供が作れるようになりたいって話はどうなんのさ」
「それも同じ理由だ。二度は言わねぇよ」
 つまり、あたしの自由意思を尊重してくれているということだった。
 でも。
「———せに」
「あ?スマンよく聞こえなかった」
「人間のくせに、死神のあたしを上から見てんじゃねー!」
「あいたっ!!ちょ、お前殴ることないだろさすがに」
「五月蠅い、死ね」
「いてっ」
「死ね死ね死ね」
「いててっ」
「死ね死ね死ね死ね死ね………」
「痛ぇってのに!念仏みたいに毒吐くのやめろって」
 あたしが風也のことを受け入れるのには、それなりに時間が必要だった。
 仕方ない。人間とまともに過ごすのなんてこれが初めてだったんだから。


 あたしは風也の願いを聞き届けた。
 とはいえあたしは死神。天使なんかじゃない。人の命を、魂を奪うのが性。命を生み出すことなんて専門外だった。
 だから、かなり歪な叶え方になっちゃった。
 あたしの血と風也の血を混ぜて赤ん坊を作った。言葉通り、混ぜて作った。これは死神が死神を作るやり方だったから、代わりに人間の血を混ぜたらどうなるかなんて他の死神から教えてもらったこともないし、どんなものが出来上がるのかも予想できていなかったんだけど。だから出来上がったのが少なくとも外見は普通の人間と何ら変わりない赤ん坊だったのを確認した時、あたしと風也は子供みたいに飛び上がって喜んだ。
「紛れもない、これは俺の子だ」
 出来上がったばかりの小さな子供を抱き上げて、風也は静かに涙を流していた。あいつが泣いたところなんてこの時しか見ていない。それだけ嬉しかったんだろう。
「よかったじゃん。夢が叶って」
「あぁ。マリン、本当にありがとう」
「人間の女が普通に子供産んだときみたいな感じでお礼言うのやめてくれない?」
「何言ってんだ。この子はお前が産んだんだろうに」
「は?」
「この子は俺の血とお前の血を分けて生まれてきたんだ。なら、お前はこの子の母親だろう?」
 母親。あたしが、この子の。
 死神も既にいる死神の血から作られるけど、そこに親子の情があるかと言われればそんなことはない。役割を果たすために必要だから作られる。ただそれだけ。
「あたしが、母親」
 口にしてみても、とても現実感を伴わない空っぽな響きだった。
 ふと、服の裾を引っ張られる感覚を覚えた。視線をやると、風也の腕の中にいた子供があたしを掴んで、生まれたばかりの虚ろな瞳で、しかししっかりとあたしの存在を捉えていた。
「ほら、この子もマリンのこと母親だと思ってるみたいだぜ」
「いや、ちょっと困るんだけど。というか、そっか。この子にあたしの血が入ってるってことは、あたしのことが見えてるんだやっぱり」
「なぁ、この子の名前はどうする?」
「そんなのアンタが決めたらいいじゃん。親なんだし」
「だからお前もこの子の親だろうに」
「はぁ」
 あたしは一つ大きな溜息を吐いて、そのときなんとなく頭に浮かんだ言葉の羅列をそのまま口にする。
「ライト、とか?」
「死神の名付けは独特だな」
「文句あるならアンタが—――」
 アンタが決めなさいよ。そう言ってやろうとしたとき、風也に抱かれていたその子が笑った。
「おっ、笑ったぞ。どうやらその名前が気に入ったらしいな」
「そうなの?」
「そうだろ。だから笑ったんだよなーライト?なんて字で書くんだろうなー?」
「字はフーヤが決めなよ、さすがに」
 母親。あたしはその日母親になった。
 風也とライトと、家族になった。
 そのことに、どこか心が波打つような心地だった。
 
 でも、あたしたちは普通の家族じゃなかった。
 普通じゃいられなかった。
 あたしは、普通じゃなかったんだから。


 およそ二十年後。普通の人間と同じように成長した来人《ライト》の背に、突然それが現れた。
 あたしと同じ、真っ黒な羽。死神の証である翼。
 もしかしたらとは思ってた。見た目は父親の風也によく似た普通の男の子だったから、どうかこれからもそのままで人生を過ごしてほしいと思っていたけど。
 だってこの子は風也の子だけど、あたしの子でもある。
 死神の子供なんだから。
「マリン、どうすればいいんだ?どうすれば来人は元に戻る?」
「元にというか、ある意味これが元の状態なんだろうけど」
 風也は息子の来人をどうにか元に、普通の人間の姿に戻そうと躍起だった。あたしを呼びだした時みたいに術者や祈祷師なんかに頼ろうともしてたけど、来人がこうなってしまったことが外に漏れることも恐れていた。あの頃はまだ霊だの妖怪だの怨霊だのが信じられていた時代だ。今の来人の姿が世に広まればどんな目に遭うかはあたしでも予想できる。
「そもそも、この子はイレギュラーな方法で生まれたからね。どこまで通用するのか分からないけど」
「可能性があるならなんだっていい。頼む」
 ―――頼む、か。
 あの日交わされた隷従の術はまだ生きているというのに、こんな状況でもあたしに無理強いしないところはさすがお人好しだと、我が“夫”ながら呆れる。
 ———そういうヤツだからこの子を作ったんだけど。
「この子に“貸したもの”を返してもらえれば、もしかしたらただの人間に戻せるかもしれない」
「貸したもの?」
「この子を生んだときに使った、あたしの血だね」
「そんなことが可能なのか?命の危険は?」
「ある。あたしもそんなのしたことないし、最悪死ぬかもね。それでも―――」
「分かった」
 こちらの問いを待たずに風也は答えた。
「決断が早いね、随分」
「それ以外に方法は無いんだろう?なら頼む」
「死神に命を創らせるだけに飽き足らず人命救助までさせるとか、隷従の術があるとはいえ業突張りすぎ」
「死神である前にマリンはこの子の母親だろう?信じてるよ」
 そう言って風也は笑う。
 その笑顔は初めてこいつと出会ったとき、こいつに名前を尋ねられた時と全然変わってなくて。顔の皺は増えてたけど。
「はぁ」
 何日もかけて、あたしは来人から血を少しずつ返してもらった。そうしてなんとか来人から死神の力を取り除くことはできたんだけど、もっと根深いところ―――魂に刻まれたものまではさすがに無理で。
 
 桜庭家の人間には、代々あたしの血が、死神の血が脈々と受け継がれることになる。
 世代を重ね、徐々に子孫に流れるあたしの血が薄くなっていくにつれ、あたしに死神の力を返すというその行いは、成人を迎える日に“身体の一部”をあたしに差し出すという形に変わっていった。“桜庭家繁栄のため”というもっともらしい、しかし事実無根の建前を添えて。


「なぁ、マリン」
「なに?」
 屋敷の縁側で、すっかり足腰の衰えた風也と肩を並べて日向ぼっこをしていた時。風也が徐に口を開いた。
「某が死んでも、この家に居てくれるか?」
 風也が自分を“某”って言うときは、マジなときだけ。
「さぁ。術者が死んだ後まで隷従の術が続くかどうかは知らないけどね」
 本当は知ってた。術者が死ねばあたしは解放される。風也が死ねば、あたしはまた自由に死神として人間の命を刈る日々に戻れる。
 言ってほしかった。風也に。“この先も来人たちと一緒にいろ”って。
「そうか」
「ああ、もう………!」
「?」
 何年経ってもこいつの性分は変わらない。本当に腹が立った。
「最後くらい命令しなさいよあたしに!“これからもこの家に居ろ”って!一言そう言えば済む話でしょ!!」
 そう強い言葉で風也をなじるけど、歳を重ねて老いたあいつは力なく笑って。
「某は、惚れた相手に本意でないことを無理強いするような真似はできない性分でな」
「アンタってヤツは、本当に………!」
「マリン。其方はどうしたいのだ?」
「あたしは………!」
 ———一緒に。
「これからも、ここにいるから!来人と一緒に、来人に子供ができても、孫ができても………。だから」
 来人の子孫にも、あたしの血が流れている。きっと死神の力がある。それを取り除いて普通の人間にしてやれるのはあたしだけ。
 あたしがこの家に居ないと、この先生まれる沢山の子供たちが不幸になる。
「そうか………」
 あたしの言葉を聞いた風也は嬉しそうに笑って、そのままあたしの膝に頭を預けて横になった。
「それでこそ某の、俺の連れ添いだ。これで、思い残さずに逝ける」
「だから、死ぬなんて言わないでよ………っ、フーヤ………」
 死神であるあたしが、人間に向かって“死ぬな”なんて言葉を口にしたのはそれが初めてだった。
 涙を流したのも、初めてだった。
「泣いてるのか、マリン?」
「う、るさいっ………」
「………」
 風也は皺だらけの手を伸ばして、弱々しくあたしの頭を撫でた。子供をあやすみたいに。
 しばらくそうして、ようやく涙が止まった頃。
 あたしは風也の左手の小指に自分の小指を絡めて言った。
「あたしはこれからもこの家に居る。フーヤが見たがってたフーヤの子孫たちの人生を血脈が続く限り見届ける。約束するから」

 それは盟約。
 ここから千年続く、桜庭家と死神マリンとの盟約になった。

▲▲▲

「おい。マリン?」
「えっ」
「どうしたんだボーっとして」
「あぁ、うん。別になんでも。ちょっと昔のこと思い出したというか」
 桜庭家繁栄の引き換えに俺の左手小指を差し出すと答えたが、マリンはどこか不服というか、思うところがある素振りを見せた。
 そもそもこの“盟約”の具体的な仕組み自体自分は把握しているわけではないしそれを正しく理解しているのはマリン当人だけなのだろうが、果たしてこの取引は本当に価値のあることなのだろうか。
 死神なんて存在に魂を売ったご先祖様の考えなんて今の自分には及びもしないが、そうまでして桜庭の家を残す意味がどこにある?
「んじゃ、セージが差し出すのはそれね。りょーかい」
「なぁ、マリン」
「え?」
「やっぱり差し出すもの、変えてもいいか」
「なに、結局変えるの。で、どこ?」
「睾丸」
「は?」
「睾丸。金的。タマ。学術的に言うと精巣?」
「いや、あんたそれ………」
 マリンは面食らったと言うように無の表情をしている。どういうことを意味しているかは彼女も理解しているようだった。
 次の世代に命を残す機能を奪ってほしい。
 そういうことだ。
「自分が何言ってるか分かってるわけ?」
「もう二十歳だ。それくらい分かる」
「いや、いくらなんでもそれは受け取れな―――」
「やれよ、早く」
 有無を言わさず俺はそう彼女に詰め寄った。勢いで彼女の右肩を掴んでしまったが、間近に迫るマリンの表情には明らかな困惑と小さな恐怖心が見て取れる。思えば彼女とも今日で二十年の付き合いになるが、こんな風に彼女を詰問するのなんて初めてかもしれないな。
「ほら、死神らしく持っていけよ。いつか生まれるかもしれない命」
「い、いや、セージちょっと落ち着きなって」
「落ち着いてる。だから持ってけよ」
「持ってかないし。そんなことしたらこの家はアンタを最後に血が途絶えちゃうじゃん」
「いいよそれで」
「アンタね―――」
「死神と契約してまで俺は幸福に生きたいとは思わない」
「………」
 別に彼女に対して敵意を持っているとかそういうわけではなかったのだが、そう受け取られても仕方のない発言だったと気付いた時には手遅れだった。言葉は時として凶器になる。
「もう、俺の代で終わらせたいんだよ。こんなくだらねぇこと………」
 これではまるで繁殖に一生懸命な虫と同じじゃないか。俺が生きる目的は御家のためじゃないだろう。俺は俺のやりたいように生きたい。
 だからこんなこと、俺の代で終わらせてやる。
「———セージ」
「なん―――っ!?」
 マリンの声に反応した瞬間、左頬に鋭い痛みが走った。直後に「パンッ」という小気味いい音が部屋に響き、そこで漸く俺は彼女に頬を叩かれたのだと知る。
「なに、するんだよ」
「………別にアンタにムカついてビンタしたわけじゃないから」
 相対するマリンはやり場のない感情の置き場を探すように視線を背ける。けれどその表情は確かな“怒り”を感じさせた。彼女は怒っている。何にだ?
「いや、どう見ても怒ってるだろ」
「怒ってないし。ただ………」
「ただ?」
「アンタが、人の気持ちも知らないで好き放題言うから」
「誰の気持ちだよ。親父か?ご先祖様か?」
「あとあたしも」
「そりゃあ死神のお前からすれば面白い話じゃないのは分かるけど、俺は—――」
「ああもう、うっさい!!」
 マリンは一際大きい声でそう叫んだ。駄々をこねる子供のように。いや普段から注文の多い我儘なやつだけど、これはいつものそんな可愛らしいものじゃない。断固として譲れない、とでも言うような彼女の決意が滲んでいるように見えた。
「本当に、何も分かってないんだからアンタ」
「じゃあ教えてくれよ、俺が何を分かってないのか」
「あたしは、あいつは、アンタの不幸なんて望んでないってこと」
「不幸?子種を無くすことが?それが俺にとっては幸福なことだとしてもか?」
「この家を終わらせることが、アンタにとって本当に幸福なことならそうすればいい。跡継ぎでもない、人間でもないあたしがセージにそんなの“命令”することはできないよ?」
 だけど、と彼女は言った。
「自分で生き方を捨てるような真似、しないでよ」
「捨てた方がいいものだって世の中にはあるだろ!!」
「アンタのそれはそうしない方がいいものだってことくらい分かるでしょ!?」
「どうしてお前は—――!」
 俺は怒りに任せてマリンへ反論をぶちまけようとした。しかし唐突に彼女は俺の右手を取ると—――。
「これだけ“返して”もらうから」
「え―――」
 マリンは俺の右手小指に自分の小指を絡めると、そのまま勢いよく振りぬいた。
 まるでワインのコルク栓を抜いたかのように、俺の小指が宙を舞う。
「っ、ぬあああぁっ!?」
 痛い。今まで感じたことのない激痛に呼吸が乱れる。全身の毛穴から脂汗が吹き出そうだ。俺は手負いの獣のようにその場でしゃがみ込み、自分を見下ろす死神を睨みつけた。
「お前、いきなりはないだろうさすがに……しかも超痛ぇし………」
「本当は痛みを感じさせないようにすることもできたけどね。罰当たりなこと言ったお仕置き」
「俺の意見無視してんじゃねぇよ………っ」
「なんでアンタの意見をあたしが聞く必要あるわけ?“死神”のあたしが」
 そう意地悪く笑うマリンの表情は、過去最高に邪悪なものだった。いつもの黒いパーカーの色合いも相まって、今日ほどこいつが死神らしく見えた日はない。
「小指にしたって、利き手の右の指持っていくなよな………。というか左手ってさっき言ったじゃねぇか俺」
「あぁ、それはね」
 マリンは思い出したように声をあげると依然床に蹲る俺に視線を合わせるようにしゃがみ込み、無傷の俺の左手を取るとその小指に鈍く光るものを嵌めた。
「お、ぴったりだし」
「………?指輪?」
 それは小ぶりで飾り気のない指輪だった。普段アクセサリーを付けることはあまりないが、見たところそこまで値が張るような品にも見えない。百均に売っていると言われても信じてしまうような、本当にどこにでもありそうな代物だった。
「しばらくそれ付けときな」
「いや要らないよ指輪なんて―――っ!?」
 未だ痛む右手の指で指輪を外そうとしたが、外れない。サイズがきついとかそういうわけではない。だがそれは意思を持っているかのように小指の第二関節から先へ進んでくれなかった。
「それ、当分外れないようにしたから」
「はぁ?なんなんだよホント………?」
「あたしなりの気遣い」
「は?」
 気遣い?どういう意味だ?
 マリンはよっこいしょと声を出して立ち上がると、そのまま一瞥もくれずに歩き去る。
 部屋の戸に手をかけたところで、彼女は一度だけ振り返った。
「セージさ、手の小指は何のためにあるのか分からないって言ったよね」
「あぁ………?そうだけど、それがどうしたっていうんだよ」
 マリンは何かを思い出すように微笑を浮かべてから、言った。
「小指が無いと、指切りげんまん、できなくない?」
「さっきリアルに指切ったやつが何言ってんだよマジで」
「まーね。じゃ、さっさと右手の傷診てもらえば~」
 バイバイと軽い調子で手を振り彼女は部屋を出ていく。
 ふと吹き飛んだ右の小指が落ちていないかと辺りを見回したが、無かった。事前に聞いていた通り、マリンに“美味しく”戴かれたのだろう。
 一人残された俺は眼前で両の手を開き、小指の無くなった右手と、小指に指輪が嵌められた左手を交互に見た。
 ———これで俺との“盟約”も履行されたわけか。
 ———「人の気持ちも知らないで」って、なんだよ。
 ———知るわけないだろ、他人の気持ちなんて。
 ———お前も結果俺の気持ち無視してんじゃねーか。
 ———でもどうしたって、この家は俺の代で終わらせてやる。
 ———こんなこと、自分の子供には絶対に………。
 俺は今日、失うことを望んでいたわけではない右手の小指を失った。
 代わりに、失うことを望んでいたものは失われなかった。
 今日という日は、桜庭家の少なくとも当代での繁栄が守られた吉日になった。
 今日という日は、桜庭清司が何も変えられなかった凶日になった。
 
 それからしばらく経った頃に、俺はつける場所によって指輪に意味があるということを偶然知る。
 左手小指の指輪の意味は、【変化とチャンス、恋を引き寄せる】。
 どういう気遣いだ。
 我が家専属の死神が何を考えているのか、俺にはさっぱり分からない。

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