夢泥棒は朝に眠る 第五話
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妹の夢美が学校に行かなくなったのはいつからだったろう。
少なくとも私が中学校に入る頃には、あの子はもう病院のベッドで毎日を過ごしていたはずだ。
小さい頃はよく二人で外で遊んだり一緒に買い物に行ったりもしたけど、風邪一つひいたことのない私と違って、あの子は昔から身体が弱かった。
学校終わりに病院に会いに行くと、あの子は決まってベッドで本を読んでいて。時々あの子が気に入りそうな本をお土産に持っていってあげると喜んでいたっけ。
「私、この人の書くお話が好きなんだ」
「え?」
夢美がそう言って見せてくれた雑誌には、見ただけで眠くなるような難しい文字の羅列がびっしりと印字されている。その中からやっとの思いで妹が指す単語を見つけた。
”芝浦恭介”。
「聞いたことないけど、有名な人なの?」
「んーまだ雑誌投稿してるお話しか読んだことないかな」
「ふーん」
私は昔から本を読むのは苦手だったし、そんな私が小説家の名前なんていちいち覚えているわけがない。あの子のお土産に買っていた本だって、表紙のタイトルだけ見てなんとなく面白そうだと思ったものを雑に買っていただけ。だからあの子が好きだというその小説家にも私はこれといって興味はなかった。
「なんでその人の話が好きなの?」
「んー、正直プロの有名な作家さんと比べたらいろいろ粗削りなところもあるんだけどさ、夢のあるお話を書くところが好き。なんというか、若くて未熟だからこそ書ける世界っていうのかな」
やっぱりよく分からないし興味もない。我が妹ながら感受性豊かなことだ。
「いつか、この人みたいに小説書けるようになりたいな」
「書けばいいじゃない。ベッドにいても原稿用紙にペン走らせるくらいはできるでしょ?」
そう言うと、妹は力なく首を振る。
「最近は、起きてる時間の方が短いし。手を動かすのも結構体力使うんだ」
「何言ってるの。今にきっと体調も良くなるって」
私はそう無理に笑顔を作って見せたが、両親から妹の容体については聞いていた。病名は長くて難しいからよく覚えていないが、時間が経つにつれて身体が起きていられる時間が減っていって、いつかは眠り続けるようになってしまうと。何度か大きな手術もしたが、回復の兆しはまだないということも。
「ねぇお姉ちゃん」
「ん?」
「もし私が眠っても、私が見ている”夢”を盗ったりしないでね」
そう言う夢美の顔には諦めにも似た微笑みが浮かんでいた。
妹にだけは私の不思議な力についても話していた。他人の”夢”を見て奪うことができるというにわかには信じがたい、それこそ夢のような話を夢美は疑うことなく信じてくれて。時々授業中に寝ているクラスメイトの”夢”の話をしたら妹は笑って楽しそうに話を聞いてくれた。なんでもいいから、あの子の笑顔を見たかった。あの子に寂しい思いをさせたくなかった。
「どうして?」
「夢の中でくらい、幸せでいたいから」
「……ッ」
じゃあ今は幸せじゃないの?
喉まで出かかったその言葉を私は必死に飲み込んだ。
そりゃ、夢美にとって今が幸せなわけはない。学校にも行けなくて、友達とも遊べなくて、いつも一人で本を読んでいるだけ。病室の窓から外で元気に遊ぶ子供たちや家族連れを悲しい目で見ているこの子を、誰が幸せだと思うだろう。
やっぱり私は、夢が大嫌いだ。
この子を現実から、当たり前で幸せな日常から奪おうとする夢が嫌い。
でも。
「……分かった」
夢美が幸せな夢を夢見ているのなら、奪うわけにはいかない。
だって、お姉ちゃんだから。
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———嫌な夢を見た。
ベッドで目を覚ますと、既に窓の外に日の光は失せていて、代わりに私にとって見慣れた優しい闇が訪れている。部屋に差し込む薄い光から察するに空に月が浮かんでいる。月が出ているということはきっと雨は降ったりしていないんだろう。
まだ重い瞼を右手で擦りながら、左手で枕元に置いてあるスマートフォンを探る。
———あれ、ない。あーもう。
チッと舌打ちをして、まだ疲れが抜けきっていない身体を無理やり起こして枕をひっくり返してみる。
ない。
もしやと思いベッドとマットレスの間に手を差し込んでみると、触りなれた固い感触があった。
スマホの電源をつけて時刻を確認してみる。午後23時29分。今日は夕方の17時には家に帰って寝たはずだから、6時間半ほど眠っていたのか。まぁ十分。
ベッドから立ち上がると、私は顔を洗って軽く化粧をし、今夜の”犯行”のための一着を選ぶ。今夜は割とすんなり決まった。昨日新しい服をいくつか買ってきたところだから迷わずその中から一つを選ぶ。毎日日替わりで服を買えるくらい恭介が稼いでくれればいいのに。そう思った10秒後、私が夢泥棒として頑張らないと恭介が稼げないということに気付いたけどとりあえず気にしないことにする。そもそも恭介が自力で面白い小説を書けるようになればいいだけの話なんだし。20秒後、そうなったら私の夢泥棒の仕事がお役御免になることに気付いた。面倒だなもう。いっそ小説とか夢泥棒とか関係なく私に金を運んでくれればいいのに。
今夜の衣装に着替えると、姿見の前で軽く顔の角度を変えて化粧の乗りを確認する。
———うん、問題なし。
次に買ったばかりの服の具合を確認する。買うときに試着はしたけどお店で着た時ってなんか妙なフィルタがかかって見えるんだよな。
———こっちも問題なし。今日も可愛いぞ私。
犯行準備は整ったけど、まだ少し身体が重い気がする。なんだか最近寝ても寝ても常に眠い。軽く何かお腹に入れておいた方がいいかな。
いや、この時間に飲食なんて言語道断。我慢我慢。仕事終わりにいつものバーで飲み食いするのはどうなのって思うかもしれないけどあれは明け方近くだから朝食っていうことでここはひとつ。
やや重い瞼を擦りながら、私は今夜も誰かの”夢”を戴きに出た。
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畳の上で私は力なく寝そべっている。
部屋の窓から見える空が暗い。
空に浮かぶ雲はどんよりと重く、今にも雨が降ってきそう。
そんな雲よりも重そうなものが窓には備え付けられている。
頑丈な鉄格子。
絶対に私をここから出さないという、あの男の醜い執念を感じる。
私がこの座敷牢に閉じ込められて一体どれだけの時間が経ったんだろう。
あの男に強引にここに閉じ込められた私は、あの日から一度もここから出ることもできず、最低限の食事と衣服を与えられて、あの男の慰み者にされていた。
鉄格子越しに、何度「助けて」と叫んだだろう。
あの男が無骨な手で私の肌に触れるたびに、何度「帰して」と訴えただろう。
この狭い部屋で、何度自死を考えただろう。
どうして私は生きているんだっけ。
このまま何もかも諦めてしまってもいいじゃない。
私が生まれてきたのは男の欲望を満たすためなの?
なんてくだらない人生。
もう、どうでもいいや。
私はゆっくりと舌を伸ばし、それを一思いに噛み切った。
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———なんつー重い夢見てるのよ。フィクションなのか実話なのか知らないけど。
———こんな生々しい話さすがに恭介もネタにしないわよね。
私は早々に見ていた”夢”を打ち切った。瞬間、視界が”夢”の座敷牢から見慣れた夜の街に切り替わる。今夜は一発目から後味の悪い”夢”を見てしまった。さっきまで私が見ていた夢も、内容はもうあまり覚えていないけれど良い夢ではなかった気がするし、今日は散々。
———やっぱり夢なんてロクなもんじゃないわね。
変な”夢”を見たせいで否が応でも妹のことを思い出してしまう。
今も”夢”を見続けている夢美のことを。
夢美が目覚めなくなったのは私が高校二年生の頃。映画やドラマみたいに感動的な言葉を言い残すこともなく、静かにあの子は長い長い眠りについた。私も両親も覚悟だけはとっくの昔にしていたから、思っていたよりはすんなりとその事実を受け止められた。傍から見ている分には本当にただ眠っているようにしか見えないんだもの。ちょっと体を揺すって声をかければ起きそうなくらい。でも、もう二年近くあの子は目を覚ましていない。一度たりとも。一瞬たりとも。延々と”夢”を見続けている。
やろうと思えば、きっとあの子の”夢”を見ることも奪うこともできる。
もしかしたら私が夢美の”夢”を奪えばあの子は目を覚ますんじゃないかなんて、何度考えたことだろう。
でも結局それはできなかった。あの子が嫌だって言ったから。
あの子はきっと、いつも読んでいた小説みたいな美しい”夢”を見ているはずなんだから。
———だから、私にできることは、恭介に……。
次の”夢”を探して一歩を踏み出した瞬間、不意に糸が切れたかのように足に力が入らなくなった。次いでミニスカートを履いていたせいで夜風に剥き出しになっていた両膝がアスファルトに激突する鈍い痛みが脳に届き、自分が膝を折ったことに気付く。
そして本来なら次にアスファルトに激突すべきは頭部だったのかもしれないが、その痛みを私が感じることはなかった。
私の上半身が地面に自由落下するより前に、私の意識は”夢”の世界に飛んでいたから。
この日、私は久しぶりに朝ではなく夜に眠りについた。
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