言いたいことを思いだした
昨日、下書きに途中まで書いてあった原稿を引っ張り出して続きを書いたものを公開した。
このように書いてあったのだが、今日思い出した。前述のnote、前半の部分にこう書いてある。
これで思い出した。この下書きのタイトルは「Who are you?」だった。そう。フォロワーのいない、SNS的交流を一切しないアカウントに作品だけ置いていたら、「物」はあるのに「者」はない状態になり、全く動かないのではないか、と当時のわたしは考えたわけ。
この原稿を書いたのは多分2020年である。2020年の12月1日に、実はわたしはnoteのアカウントを新たに作った。そのアカウントには作品だけを載せ、誰もフォローしないし、誰にもスキをつけない。記事をシェアしないし、要するに何もしない。ただ淡々と作品だけを書く。まさに「Who are you?」である。ミスターノーバディ。
仮説として、そのようなまったく何もSNS的活動をしないアカウントに何を載せようと、そこから何も生まれないだろうと予測した。予想に反し、いくらかのスキはついたが、最大でも5であった。やはり誰一人フォローしていない、誰からもフォローされていないアカウントをフォローする人はおらず、何も始まらないのである。
すでに有名な人はこの限りではなく、著名人のアカウントがフォローゼロであっても大量のフォロワーを得ることは想像に難くない。しかし無名のどこぞの馬の骨が誰一人フォローしなければ、それは誰からもフォローされないんである。素性のわからない人の作品を追いかけようとはなかなか思わないのであろう。
もちろん容易に想像できる。なぜならわたしがこのアカウントを発見したとしてもフォローしないだろうし、スキも押せないだろうし、コメントなどできようはずもないからである。
一時期、涼雨名義で出すのはこっぱずかしいような詩などをそのアカウントで書いていたのだが、そのうち飽きて放置になった。無フォローアカウントが放置されていたらなおさら誰の目にも触れないであろう。動きのないアカウントはアルゴリズムでレコメンドされないだろうし、超シンプルなハッシュタグしかつけなければ検索でヒットすることもなかろう。
こうして、作品だけがネットの海に沈んでいくのである。デジタル時代のアート作品はこうして無数に沈んでいるのであろう。アトランティスである。
さて、では涼雨零音はどうやってSNS的交流をしたのかと言えば、そもそもそういうのは苦手ではあるものの、私設コンテストに参加してみたり、お気に入りのnoterさんを紹介する記事を書いてみたり、そういう活動から次第に交流してくれる人が増えた。この最初がとても難しい。絡んでも大丈夫そうな人を見つけて絡んでみる。記事をシェアしたりしてみる。すると読んでくれたりして広がりができる。
作品の質以上に、周辺の交流、結局人と人との交流という部分が重要なのだ。もちろん作品の質がどうでもいいわけではないが、作品の質だけ良くてもダメではあるだろう。知られなければ「Who are you?」なのである。
おそらく昨日発掘した下書きは、本来こういうことを書きたかったnoteだと思う。
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