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「打てば響く」を探して

「忘れられない思い出」といって思い出すのはだいたい、ショックを受けたエピソードだ。心底嬉しかった、というようなことはあまり覚えていない。無くはないはずなのに、そういう良い思い出として思い出すものはほとんどない。思い出すのはだいたい、ぶん殴られたような衝撃を受けたエピソードだ。

 一つ、些細なことなのに胸の奥に刺さって抜けない記憶がある。

 過去に勤めていた会社で、会社の先輩が我が家に遊びに来る、というできごとがあった。先輩は先輩だけれど年はわたしよりも若く、ざっくばらんにやり取りしている友達のような人だった。その人が遊びに来たときに、わたしの大好きな映画を見せた。その先輩が、見たことがないから見たいと言ったのだ。

 一緒にその映画を見ていて、わたしがあまりの面白さに大笑いしていると先輩が言った。

「ゴメン、なにが面白いのかぜんぜんわからないんだけど…」

 崖から落っこちたようなというか、地上だと思っていたところが海底だった、みたいな衝撃を受けた。わからない? わたしにとってそれは何の不思議もなく抱腹絶倒なギャグにまみれていて、ゲラゲラ必至な映画なのであった。面白くないとか、好きじゃないといった感想ならまだわかるのだけれど、なにが面白いかわからないとは…。

 ここでわたしは、わからない相手が悪いのではなく、自分の感覚のほうがおかしいのではないかと感じた。もちろん、その映画を作った人たちがいるわけで、わたしの側、同じサイドにも心強い味方がいる。しかし、思った以上に少数派なのではないかと、思ったのだ。

 そして思い出す。その映画の劇場公開時、劇場に三回足を運んだことを。初日、中日、最終日。三回映画館へ行き、三回とも観客は私一人だったことを。もしかして、この地域でこの映画を劇場鑑賞したのは私一人なのではないかと不安になるほどの出来事だったことを。

 DVDは初回限定版の一万円ぐらいするやつを発売日に買った。買ってからも何度も見た。底抜けに面白い。大好きだ。

 わたしはこれまでずっと、自分の好きなものを好きだと言い、好きなものを作ってきた。音楽も映像も文章も音声も。自分が鑑賞したいものを作ってきた。というより、それしか作れない。もちろんできるならいいものを作りたい。自分自身は貪欲だから、より良いものを求める。満足のいくものができてもさらに次、もっといいものを作りたい。ただ、その「いい」の基準はわたしの中のものだ。わたしが「いい」と思えるものを作りたいと思ってやってきた。

 そして、これがややこしいのだけれど、わたしが「いい」と思うものを作りながら、それをわたし以外の人にも届けたい。なんなら、より多くの人に「いい」と思ってほしい。

 でもそもそも、だいぶ狂った基準にいるのだ。面白いと思うものがズレていたり、面白いと思うポイントがズレていたりする。前述の作品のように、わたしが最高だと思うものが身近な人に「わからない」と言われたりする。同じ作品を「最高だ」と言っていても、「どこがいい?」という話になると「え、そこ?」となったりする。

 わたしが目指すべきは、喜んでもらえるものを書こうとすることではなく、あの映画のように、それがものすごく狭い範囲にしか届かないとしても信じて書くことなのだろう。なんちゅーツライ道なんだ。

 日々、多くの人の共感を得るようなものを書いている人たちがいて、そこかしこに「共感」が溢れているなあと思う。それを傍目に羨みながら、でもピッタリ共感できない自分をもどかしく思う。こういうのが「エモい」のか、と思いながら「エモい」がわからない。なぜわからないんだろうと悶々とする。でも、上のエピソード一つとってみても明らかなように、考えてみたらわたしにわかるはずがないのだ。そもそも共感の軸がぜんぜん違うところにある。わたしはわたしの共鳴できる人を探すしかない。きっとどこかにいるそういう人に向けて、自分の面白いと思うものを書くしかないんだ。

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