[映画]機動戦士ガンダムF91
久しぶりに今夜のU-NEXTシリーズ。1991年の作品、ガンダムF91。
たしか公開当時に見て、以降はゲーム等で、ビギナ・ギナが出てきたり、ラフレシアが出てきたり、もちろんF91はなんか分身したり、というような、記憶の断片に分解されてしまっていた。
今夜、これもほとんど30年ぶりに見て、あぁ、こんなお話だったのかと、楽しんだ。
これ、今見るとその後の平成に入ってからのガンダムシリーズの原点ともいうべきストーリーで、それまでのガンダムを継承しながらも脱却しようとし、そしてそれにある程度成功しているように思えた。なにより、映像の持っている力がものすごい。このあたりの作品までは、CGは使われておらず、全部作画され、おそらく全編フィルム撮影であろう。作画モビルスーツ戦の極致ともいうべき気持ちのいい絵がほとばしっている。
モビルスーツがカタパルトにスタンバイし、撃ち出されて行く。その圧倒的な気持ちよさ。ああ、これこそがアニメーション、と思うような絵だ。宇宙に向けて突き出したカタパルトデッキを滑っていくモビルスーツ。広角レンズで撮影されたようなカタパルトデッキをモビルスーツの背中が滑り出ていく。距離に応じて変化する移動速度。その先端から光の粒となって、余韻を残して飛び発って行く。なんて気持ちのいいアニメーションなんだろう。
初めて見た当時、率直な感想として、この映画に出てくるメカはかっこよくない、と感じた。『逆襲のシャア』ではスマートなνガンダムとヘビー級のサザビー、クェスとギュネイ色違いのヤクト・ドーガ、マラサイとザクを継承したようなギラ・ドーガ、Zを継承したリガズィ、そしてサイコモビルアーマーとしてのαアジールと、ガンダム的なかっこよさに満ちていた。
対してこの作品は、宇宙海賊的なクロスボーン・ヴァンガードはガスマスクみたいな顔のモビルスーツだし、連邦は逆シャアよりもだいぶもっさりしたジェガン、主力のF91は高機動タイプでνガンダムみたいにスマートとマッシヴをブレンドしたようなかっこよさが無い。幼かったわたしにはそれが不満だった。
しかし今見るとわかる。理にかなったデザインなのだ。ロボットアニメ的ヒロイズムから脱却し、ドラマに惹きこむ。ガンダムはシリーズの最初から一貫して戦争を描き、特に戦時下における権力というものを主軸に置いているように思う。この作品は「ロボットのかっこよさ」に全く重きを置かないことによって、他の作品以上に色濃く「人」を描くことに成功しているような気がした。
鉄仮面が人を殺戮するのに使ったバグと呼ばれる兵器は、全く同じ発想のものをディックの小説で読んだような気がする。兵器として人を殺すのであれば、あのようなものが最も合理的であるはずで、ガンダム的ロボットは不合理だ。それはもうロボットアニメが抱える宿命のようなもので、戦争をやるのにモビルスーツみたいな形状である必要はない。そこについにバグのようなものを出したことも、大きな挑戦であるように思う。
この作品はガンダムでありながらガンダムから脱却しようとした作品なのではないかという気がする。描かれているテーマは他の作品とも一貫しているけれど、テーマが他の要素に阻害されないという意味で、極めて純なものになっていると感じた。
ただ、やはり尺の制約上仕方がないとはいえ、アンナ・マリーなどはもう少し丁寧に描きたかったのだろうな、と思わずにいられない。彼女はきっと、これがテレビシリーズであったなら、Zガンダムのエマさんみたいになれたキャラクタだったような気がする。作品が単発の劇場版だったせいでそうなれなかったアンナ。
30年近くも経過すると、同じ作品でも全く違って見える。
最後にひとつ、今さら言うまでもないが、この作品は主題歌がすばらしい。この主題歌への感動だけは、30年を経てもまったく変わらない。
セシリーがロナ家に戻ったシーンで流れる1コーラス、もうこれ以上ない演出だと思う。ちょっとこの歌なしであのシーンをどう見せるのか、想像できないほどだ。そして、おなじ曲がラストシーンではまったく違って聞こえる。ふたつのシーンで大きく異なるセシリーの感情が、おなじ歌をまるで違うものとして響かせている。
映画にはこんな力があるのだな、とあらためて思った。
いただいたサポートはお茶代にしたり、他の人のサポートに回したりします。