書いて頭を整理した

 わたしは小説を読むのも書くのも好きなので、文芸誌を年間購読している。ただ、文芸誌というのは一冊にかなりの量の文章が載っているので、あれこれ読めるほど時間がない。そこで、一年単位で、その年に読む文芸誌を決めてそれを一年間読むようにしている。文芸誌に載っている小説というのは、商業文芸の一応最先端であろうと、思っている。

 そんな風にして小説を読んでいる中で、ここ二年ぐらい気になっていることがあってそれについて少し硬めの文章を書いていたんですよ、ついいままで。

 で、2600字ぐらい書いたのだけれど、ちょっとこれは出すようなもんではないなと、思ったので出さないことにした。

 なんというか、それをわたしが言ってもねえ、というようなことだし、そういうことは作品に込めたらいいんではないかという想いも出てきて、やっぱこれを出すのは違うよなっていう気持ちになってしまったんでありますよ。

 でもって、そうなると今日出すものがないじゃん、ということになりまして、「今日出すもんがなくなった」という話をそのまま書いているのがこれであります。

 これね、小説を書いている人、たぶんこれを読んでくださっているわたしのフォロワーさんには多いと思うのだけれど、小説を書いているとあると思うんだけど、なにかこう世の中のあれこれであったり、人々のあれこれであったりするところに気づきを得たときに、「こういうことだと思うんだよ」というエッセイを書くのか、それをテーマに小説を書くのか迷うことない?

 わたしけっこうこれがあって、特に世間一般で起きていることを違った視点から見て気づいたことなんかを、「あれってこうだよね」みたいなエッセイ風の文章に書くことがあるんですよ。でもそれを書きながら、わたしが小説書きなんだとしたら、これはこんな文章じゃなくて小説にすべきなんじゃないのか、という声が自分の中で聞こえてくるんですね。おまえはそれを小説で表現するんじゃないのかと。そのための小説なんじゃないのかと。

 そのようにしてエッセイはボツになり、ボツエッセイはそのまま小説のネタとして使われる日を待つことになるのでありました。

 エッセイのような文章を書くと、自分がどういうことを思っているのかが頭の中で整理される。それによって視界がクリアになる。整理されたものが小説に使えるかどうかはまたまったく別の問題なのだけれど、ボツであれエッセイを書くことには意味があるなあと感じる。

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