見出し画像

わたしを励ます言葉を書いていたのはわたしだった

 小説を書くというのはわたしにとってはなにかこう、自分を解体するような行為だ。自分の内側を奥へ奥へと降りて行って、出てくるものをえぐり出す。どこか奥の方で守られたがっているなにかをほじくり出し、バラバラにして外へぶちまける。

 『雪町フォトグラフ』という作品を書いたとき、どこへも発表する前に、ある友人に見せた。

「そこらじゅうに涼雨さんがいますね」

 そんな感想をもらった。長編小説なのでそれなりにたくさんの人物が登場する。わたしとしては、違うタイプの人物を配置しよう、という意図を持って書いたものだった。でもぜんぶわたしだと言われて読み直してみると、たしかにぜんぶわたしだった。どの人物もわたしのようで、わたしみたいなことを言っていた。わたしの分身とわたしの分身の意見が食い違い、衝突し、議論し、諭し、導いていた。

 これを書いている時点で、わたしはnote を始めてもうすぐ4か月になろうとしているところだ。その4か月で知り合ったのは恐るべき才能を持った書き手たちだった。どの人の文章もわたしよりうまい。わたしの書くものよりもはるかにおもしろく、圧倒的に美しかった。

 わたしはわたしにしか書けないものを書いているはずだと、思っていた。自分の作品が文芸誌の新人賞で一次選考を通った理由も、二次で落ちた理由もわかっていた。どうすれば前進できるかも見えていて、6月に一本書き上げた。その作品は、賛否が分かれそうではあったけれど、自分では好きだと思った。

 しかしそれと前後して、note で圧倒的な書き手に大量に出会った。note を始める前は小説の投稿サイトにいた。投稿サイトにはものすごい数の小説が、それこそ百万単位で公開されていて、いくつも読んだけれどnote ほどぶちのめされる作品には出会わなかった。

 そしてわたしは読む方に比重を置いた。わたしにとって小説は自分をバラバラにしながら書くものだから、短いものをサクッと書いて公開する、というようなことがなかなかできない。しばらく書く手を止めて読むことにした。

 いやもうほんと、なに? 才能のある人なんていくらでもいるじゃん。

 わたしなど逆立ちしても書けないようなものを書いている人がゴロゴロいる。正直に言ってしまうと、note でこれまでいろんな人の作品を読んでいて、「このぐらいならわたしにも書けそうだ」と思うものは実にひとつも無かった。新人賞の受賞作品を読んだときよりも、もっと手が届かない気がした。

 とたんに、自分の書いてきたようなものは誰にでも書けるのではないかと思った。

 ぼんやりと、これまで書いたものを読み返していた。これはほんとうにわたしにしか書けないものなのか、と思いながら。わたしにしか書けないものでないなら、それはきっと、もっとうまく書ける人がいる。

 そうやって読んでいたら、こんな文章に出会った。せっかくなので縦書きのスクリーンショットを貼ってみる。

 ここに、まさに自分を励ますような言葉が書いてあった。

 余談だがここに登場する実咲というのは統合失調を患っている少女で、ぎりぎりのところで正気を保っている。発作が起きると比較的重い症状が出て日常生活がままならなくなる。わたしはこの実咲を描くために統合失調症に関する本をたくさん買ってきて読んだ。臨床医の書いたもの、研究者の書いたもの、当事者(患者)の書いたもの、病中にいる人の書いたもの、寛解した人の書いたものなど。実際に患者である友人の話もたくさん聞かせてもらった。上で引用したのは、その実咲の言葉だからこそ、深雪には強く刺さった、というシーンです。

 これを読んで、あ、深雪もわたしだったんだな、と思った。そこらじゅうにわたしがいると言った友人は正しかった。意図的に自分を反映させたキャラクタ以外も、みんなわたしのなにかを持っているキャラクタばかりだった。

 この作品しか引用しないのは他に作品がないからではなくて、今ネット上に公開しているものがこれともう一本しか無いから、という理由です。完成している作品は他にもいくつかあるけれど、いくつかの理由によって公開できていない。少しずつ公開作品も増やしていきたいし、note にも書いていきたい。


いただいたサポートはお茶代にしたり、他の人のサポートに回したりします。