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相談に応じる方法

 わたしは若くない。若くないから、若い人たちの相談を受けることが多くなってきた。単に若くないというだけではなく、ちょうど進路を考えたり、社会に出たり、社会に出て次のステップへ踏み出そうとしたりする人たちのそばにいるので、相談される機会が多いという事情がある。

 わたしは紆余曲折してきたのでそれなりに経験値がある。インテリからアウトローまでいろいろ体験して、さまざまな人たちと交流してきた。学者の友人もいれば、飲み屋で金が足りなくて免許証を置いて帰るような友人もいる。草レースに出るような友人もいれば、免許を取った翌日に事故を起こした友人もいる。論文を書いている友人もいれば、エロ本を書いている友人もいる。

 いろいろな境遇にある人から様々な相談を受けるけれど、これまでのところ、手に負えないような相談はない。たいてい、わたしの中では答えが出る。ただ、相談されたときに答えを提示することは、しないようにしている。

 自分自身を振り返ってみると、悩んだり迷ったりすることは多かった。わたしはあまり身近に相談するような大人がいなかったから、だいたいあれこれ自分で考えては行動し、行動しては失敗し、また悩んだりした。もし誰かが道を示してくれたら、と想像すると、それはそれでろくなことにはならなかっただろうと思う。やはり自分で迷って決断する、という経験こそが、たとえ失敗したとしても、とても重要だと思うのだ。

 だから相談を受けると、どのようにアドバイスをするかに気を使う。相談してくる時点で、既にいろいろな葛藤があった上のことだろう。そしてきっとなにかしらを期待するから、相談してくる。それを「自分で迷った方がいい」と言うのではあまりにガッカリ感が高いだろう。かといって、「こうするといいよ」と言うのでは、それはそれで思考停止を招くか、もしくは責任転嫁を招く。

「あの人がこう言ったからそうした」という事態は最悪で、重要な選択を他人に委ねてしまうことになる。失敗して人のせいにするだけならまだしも、うまく行ってしまった場合、さらにひどいことになる。自分で咀嚼せずに「あの人がこう言ったからそうした」だけなのに、それがうまくいったら自分の手柄のように思ってしまう。成功すれば自分の手柄、失敗したらアドバイスした人のせい、という最低の事態を招く。

 だから答えを提示してはいけない。正解を提示できる場合はなおのこと、提示してはいけないと思っている。それに、何が正解か、ということすら、自分と相手では異なるケースが多い。わたしの答えに寄せない、ということはもっとも大切だ。特に、若い人でわたしに全幅の信頼を置いて頼ってくる人に対しては、まずわたしのことも完全には信用するな、という話をする。

 相談を受けたら、どこで行き詰っているのかを聞き出し、その先を考えるヒントを小出しにする。自分でしっかり考え、しっかり悩んで相談してきた人は、たいていこちらが何も言わなくても、どこで行き詰っているのか順を追って説明しているうちに自分で糸口をつかむ。

 相談を受けて最初にすべきは、状況の整理を本人にやらせることではないかと思う。自分が問題を解決するときにも、まず状況を整理する。これは基本だけれど、特に若くて経験値の少ない人は、その方法がわからずに行き詰っていることが多い。

 こちらで状況が全部見えていても、それを本人に説明させる。どういう事態なのか順を追って説明して、と頼み、じっくり聞く。すると本人は他人(私)に説明しようとするので、自分がわかっているつもりだったところもほぐして整理し始める。そうやって話しているうちに、自分で糸口をつかむのだ。

 不思議なことに、わたしに相談をしてきて、わたしが「順を追って説明して」と言い、説明しながら気付きを得て、「ありがとうございました!」と言う。相談して良かったです、と。わたしは、実は何もしていない。相談に応じるときに必要なのは、たいていの場合、アドバイスではない。

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