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記憶=思い出とは限らない

自他供の境界線。私を私たらしめるものとはなんだろうか。曖昧な記憶と思い出すことのないものたち。

「場所は分からないけど」「昔行った場所が忘れらない」というような呟きを見て過去に懐かしいと思えるものがあるのだろうかと、思考した。
保育園の頃は、先生とみんなで白鳥のいる公園によく行った。その数年後引っ越して、更に数年後に自分の昔の家に見に行った。全てなにも無くなって只の平地になっていた。
結果として現実としてなくなってしまったものでも、自分の心にあるならそれがいいんじゃないか。家が何もなかったことにはショックを受けて、白鳥の公園が何処だったのか分からなくても、どうでもいい。
公園に関しては何をどうしていたのか景色さえ覚えていない。突然どうでもいいのかおい。

プラネタリウムに行きたい。プラネタリウムは実家方向の場所にあり、見に行ったことがある。科学館で、その中にあった。初めての体験だった。

科学館の近くには大きな図書館があって、マックやショッピングモールがあった。そこでよく遊んでいた。

他にも、様々な記憶はある。
解離してて、うまく自分の物だと受け取れないけれど。

いつか、プラネタリウムを観たい。

来年行けたら行きたい。


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