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「鉄路の行間」No.20/北陸本線の全通で、故郷を強烈に感じた室生犀星

 「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」で始まる詩、『小景異情その二』が広く人口に膾炙している詩人・小説家の室生犀星の、その故郷とは金沢だ。犀川の左岸(西側)で育ったことから「犀星」を名乗っている。

 世において犀星は望郷の詩人と理解されているが、実際はそう単純ではない。有名なこの詩も、東京ではなく金沢で詠まれている。そして「よしや うらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや」と続く。つまり、故郷は思うところであって、たとえ乞食となろうとも、実際に帰るところではないと言い切っているのである。

 犀星の第2詩集『抒情小曲集』は1918(大正7)年に自費出版されたが、収められた詩は1910〜14(明治43〜大正3)年頃に詠まれた、20代前半の多感な時代の作品だ。その中に『小景異情その二』もある。

 鉄道に関わりがある詩も収められている。『上野ステエション』だ。故郷と自分が今、住んでいる東京が、鉄道によって深くつながったのだとの感慨が、詩作の心を動かした。

上野駅_大正時代
室生犀星も乗り降りしていた、大正時代の上野駅。当時の絵葉書より

トップトップと汽車は出てゆく
汽車はつくつく
あかり点くころ
北国の雪をつもらせ
つかれて熱い息をつく汽車である
みやこやちまたに
遠い雪国の心をうつす
私はふみきりの橋の上から
ゆきの匂いをかいでいる
汽車のあかりもみえる橋の上

 犀星は1910(明治43)年に初めて上京した。その後、たびたび東京と金沢を往復している。東京で下宿した町は谷中、根津、千駄木あたりで、今は「谷根千」と呼ばれ、人気があるエリアだ。上野駅にも近い。

 だが、1913(大正2)年4月1日までは、東京に到着した時に降り立った駅は、決して上野ではなく、新橋であったはずだ。なぜならこの日、難工事の末、青海〜糸魚川間が開業し北陸本線米原〜直江津間が全通。初めて金沢と東京が、直江津、長野回りの信越本線経由で結ばれたのだから。それまでの上野駅には、金沢からの列車が到着することはなかった点には、思いを馳せなければならない。

啄木歌碑
上野駅にある石川啄木の歌碑。東北地方のイメージが強いが、室生犀星の青年期に北陸方面へのターミナルともなった。ちなみに犀星は啄木の3歳年下

 金沢へ鉄道が達したのは犀星が9歳であった1898(明治31)年と早かったが、以後、金沢と東京を往来しようとすれば、北陸本線の全通までは米原に出て東海道本線を経由するしかなかった。北陸新幹線が金沢に達してからは金沢〜東京間の鉄道ルートと言えば、長野回りのイメージが強い。だが、新幹線の開業までは日本海側を経由しようと、東海道を経由しようと、距離的にも所要時間の面でも大差はなかったのである。実際、1968年10月1日のダイヤ改正で廃止されるまで、東京〜金沢間には東海道本線経由の夜行急行「能登」が走っていたほどだ。

 そして犀星が『上野ステエション』で詠んだように、冬、故郷の雪にまみれてやってくる列車も、北陸本線全通によって初めて現れた。温暖な東海道本線を経由する列車では、そういうことはない。

 この詩は、上野駅の北側にある両大師橋で見た風景が元になっている。北陸の雪をそのまま運んできた列車を見たその時は、詩人が強烈に故郷を意識した瞬間でもあっただろう。

両大師橋
今も上野駅の北側にかかる両大師橋
旧信越本線黒姫山_MaedaAkihiko_40
雪深い旧信越本線(現・しなの鉄道北しなの線)を走る列車 写真:MaedaAkihiko(CC BY-SA 4.0)


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