【急行ゴンドワナ 3】長野県 別所温泉・花屋
別所温泉で検索すれば最上位に表示される花屋は、ほぼ全館が登録有形文化財という美宿だ。
浴衣姿の客がそぞろ歩き和装の仲居さんが早足で通り過ぎる、華美を抑えた渡り廊下には日本旅館の美が凝縮されている。広い敷地の中を細い廊下が分岐していく様子は神社愛好家には厳島神社を、鉄道愛好家には軌道も連想させる。
花屋の廊下の美しさは露天風呂に下る小径でも楽しめる。写真好きがblue hourと呼ぶ日没直後・日の出直前の時間帯は吊り灯篭も良い感じに輝き、特に美しい。温かい季節なら湯上りに涼むことができる雰囲気の良い一角もある。
露天風呂は生憎の霙でレンズが濡れ何やら芸術写真風になった。右下:水滴を拭いたら今度は湯気で曇ってしまった。
前回泊まった21号室は建築雑誌で知った。新潟の遊郭から移築したといい、天井は目黒雅叙園のように華やかだ。だが苦界に沈められた女性逹が何を思いながら毎日毎夜この天井画を見上げていたかと思うと胸が痛む。
上田市内に残っていた最後の武家屋敷を移築した離れができたというので再訪した。元は上田藩上士・河合家邸で、昭和5年にはロシア革命を逃れてアメリカに亡命途中(という事は日本海を渡り太平洋航路が出る横浜まで本州横断中だったか)の文豪トルストイの娘も逗留したという。水車小屋奥の城郭の石垣風の塀の向こうの家屋がそれだ。美しい廊下と連続性を持たせた意匠の階段形アプローチが組み上げられ離れの玄関に至る。
上士の格式を示す色々な造作が興味深い。玄関前には、駕籠で到着したVIP客が履物を履かずに降りる為の式台がある。中:玄関は板戸と障子の二重構造になっている。それを忘れた子供が外に出ようと勢いよく障子を開けたら眼前を遮る板戸に驚き「時空が歪んだかと思った」と面白い表現をしていた。下:座敷とは別に、客を最初に迎える玄関にもミニ床の間がある。
二の間(上・手前)右手の取次の間は激狭だが、座敷と玄関の間には格式上バッファーが必須だったのだろう。ここまでくると格式も微笑ましい。右下:窓枠をサッシ化せず木製の桟とした芸の細かさが良い。これらの大半は新建材で再現され、同じ建物を移築したというよりレプリカの新築に近い。準急ユーラシアと題する乗物連載の第73話の繰り返しになるが、傷んだパーツを交換していけばいつかは全て新品になるがそれでも同一性があるといえるかというテセウスのパラドックスに行き着く。
奥のトイレ右手の壁のロックを外すと壁全体がバコンと回り、小さな武者隠しが現れる。武者隠し右手の障子は座敷の付書院の一部になっており(右上)、主人に急あらば直ちに家来が抜刀して飛び出せるように棚は無い。堅牢な施錠の文化が無い日本家屋の江戸時代のセキュリティは超水際対策だ。
素敵な日本旅館は照明も凝っている。照明や窓は明るく目立つので与える印象が大きい。
武家屋敷専用の半露天風呂は瓦屋根付練塀に囲まれた小さな庭に面し、行灯もいい感じでハード面は◎だった。しかし清掃が不十分で浴槽内はぬるぬるで入湯するともろもろが浮き上がり、昔学生寮の当番が風呂掃除をさぼった時の浴槽を思い出した。セキュリティも何も無い時代で得体の知れない輩も寮に入り込んで入浴していたので汚れはこんなものではなかったが。
この玄関脇の印象的な建物は蔵でも改造したのかと思って尋ねると、宿では「お城」と呼ばれており新築時からこの外観だったが、かつてビリアード場として使われたという。花屋には一時西洋風を指向した痕跡が所々に残っているが、段々本格的な日本建築のテーマパークのようになってきた。
旅館名に恥じず、玄関の提灯・屋根の鬼瓦・吊り灯篭等、至る所花模様だらけだ。この宿にはうそ寒い季節にしか来ていないが、いつか本物の花の季節に来たいものだ。
大観光地の無い別所温泉は静かで良いが、徒歩圏に北向観音温泉薬師瑠璃殿やY字路に立つ道祖神等味わい深い見処がある。別所は元々は上田の別荘地の意味だったと言うが、上田には真田家で有名な上田城の他、旧市街には延焼防止用のうだつを上げた旧商家も残り、歴史建築愛好家には楽しい一帯だ。
1線頭端式の上田交通別所温泉駅は花屋から徒歩5分だ。社章付鬼瓦が鎮座し少し洋風な大正レトロの駅舎内のベンチ(右上)は奥浅・直角でこちこちに固く、そういえば昭和もこうだった。左下:駅長標識のみが古風に右書き旧字体のままなのは、乗客には用が無い場所なので標識よりオブジェの要素が強いのだろう。
留置線で保存されている旧車は上田温泉電軌(現・上田交通)堂々の自社発注車で、昭和を走り抜いた(昭和3~61年)一生を別所線を往復して過ごした。戸袋窓の形から丸窓電車と呼ばれ、鉄道友の会エバーグリーン賞第1号となった。別所線は今は元東急1000形(左下のステンレス車)で統一されている。急カーブの多い日比谷線直通用に車長18mに抑えたMサイズの同形式は中古市場で重宝され線形の悪い各地の地方私鉄で余生を送っているが、折角遠くに来たのにいつもの痛勤電車では興醒めでもある。
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