見出し画像

愛の芽生えに色づくセカイ――timelesz「夏のハイドレンジア」

こんにちは。かみなりひめです。

久方ぶりに、職場の新人さんのお話です。
そうです、私をAぇ! の沼にハメてくれた方です。

KAMIGATA BOYZ DREAM IsLAND 2024に参戦し、
ホクホクで職場にお帰りになった新人さん。

帰りにりくろーおじさんを買ってきてもらい、
なんなら私の空腹すらもホクホクに変貌。
やっぱ美味しいね、さすがでございました。

そんな新人さんに感想を聞いてみると、
開口一番に物騒な文言が飛び出してきたのです。

「私、失恋してきました――」

‥‥???

意味もわからず話の続きを聞いてみると、
どうもその感情の根幹には、この曲があったと。

気になったら飛び込むが吉のワタクシ。
言われた今日その日に聴き込んでみました。

歌詞が描く世界観に心がキュッとして愛おしい
‥‥のですが、私の謎は深まるばかりなのです。


1. 無力な「僕」からの変化

よ!ということで!
まずは歌詞を紐解いていくわけでございますよ!

まず歌詞世界の冒頭で語られるのは、
「君」のヒロイン性についてでございました。

ハイドレンジア 
こぼれる 涙さえも綺麗だ
雨の街に咲く花 ヒロインなんだ 君は

(timelesz「夏のハイドレンジア」)

基本的に「僕」の一人称語りで進むこの曲。
「僕」から見た「君」の綺麗さやヒロイン性に
ついて語られますが、ここでは「さえ」に注目。

助詞「さえ」には添加や類推の意味があります。
添加(=何かを付け加える)の意味だと解釈すれば、
「こぼれる 涙」以外にも「君」を「綺麗だ」と
感じることができる要因があることになります。

類推(=似てるものを挙げて推理させる)ならば、
「君」の「こぼれる 涙」ですら「綺麗」なのだから
まして他の要素はもっと「綺麗」なのだろう、と
聞き手に訴えかけることができます。

いずれの意味であったとしても、
「僕」が「君」を「綺麗だ」と思う理由が、
「こぼれる 涙」以外にもあるということです。

さて、続くAメロの歌詞が秀逸です。

泣き出した空を 見上げたまま
潤む瞳をごまかす君
差し出せる傘もない僕に
何が出来ると言うのだろう

(timelesz「夏のハイドレンジア」)

「泣き出した空」というのは、雨模様の比喩です。
しかし、「潤む瞳」と重なり合い、響き合うことで
「君」が涙を流している様を鮮明に映し出します。

ならば、ここでいう「差し出せる傘」とは、
① 雨模様の中にいる「僕」に向けての傘
②「君」の涙を拭うための手立てとなる何か
の二つが重層的に表現されたことばだといえます。

雨模様の下、涙に暮れている「君」に対して、
「僕」は何もしてやれない状態にあるのです。

そんな「君」と「僕」はすれ違い続けます。

まるで 時計の針 すれ違ってばかり
その笑顔が見たいのに 今

(timelesz「夏のハイドレンジア」)

「笑顔が見たい」と願った「僕」は、
強くなることを誓うのでした。

ハイドレンジア
こぼれる 涙は 僕が拭おう
守りたいよ 小さな この温もり
晴れ渡るフィナーレへと
手を引いて連れていくから
どんな時も 輝くヒロインなんだ 君は

(timelesz「夏のハイドレンジア」)

「君」の涙を拭い、守りたいと願うのです。
思えば「君」の涙は雨に仮託されていたのだから、
感動のフィナーレは「晴れ渡る」のも納得です。

そして、ヒロインたる「君」の「手を引いて」
「連れていく」ことを決意するのです。
先ほどまで「君」に何もしてあげられないという
無力感に苛まれていた「僕」がですよ?
「僕」は間違いなく、強くなりましたネ――。

2.「恋」から「愛」へ

さて、少し強くなった「僕」は、
「君」に何もしてあげられないと嘆いていた
さっきの「僕」とはもう別人です。

降りしきる 夏のいたずらに
顔を見合わせ 笑う ふたり
差し出せる傘もない僕と 
一緒に濡れてくれる人だ

(timelesz「夏のハイドレンジア」)

強くなったとはいえ、傘を持ち合わせておらず、
「僕」は「君」と濡れるほかありません。

でも、そんな「僕」に対して「君」は、
「顔を見合わせ」「笑う」素振りを見せます。
そして「一緒に濡れてくれる」という行為に、
「君」への気持ちの昂りを覚えるのでした。

初めての恋が 初めての愛に
確かに変わっていく 今

(timelesz「夏のハイドレンジア」)

「君」からの好意を確認した今、
その気持ちは「愛」であると確信したわけです。

ハイドレンジア
駆けてく 僕らを 雨が包んだ
許し合える ふたりなら 何があっても
出会えた日から僕の物語は始まった
君とともに 続きを 綴りたいんだ いいかい

(timelesz「夏のハイドレンジア」)

先ほどまで「君」の涙を比喩していた「雨」は、
「僕ら」を包み込む優しいモノに変わりました。

雨に打たれて涙する「君」に出会ったことで
始まってしまった「僕」の恋愛物語は、ここにきて
「君」をも交えて続きを綴ることになるのでした。

そして曲もクライマックス。
タイトルの「ハイドレンジア」の意味合いが
ここで回収されることになります。

ハイドレンジア
そう 雨に綻ぶ 花に誓おう
守り抜くよ 重ねた この温もり

(timelesz「夏のハイドレンジア」)

「君」の涙の喩でもあった「雨」は、
もはや二人を包み込む空間を創り出している
重要な舞台装置です。

そして、「君」への「僕」の気持ちはすでに
「恋」ではなく「愛」にまで高まっています。

そんな「雨」によってつぼみが緩む「花」は、
「僕」の感情の芽生えともリンクするでしょう。

この「雨」によって開花するという意匠は、
もちろん「ハイドレンジア」(=西洋アジサイ)の
特徴に基づいたものであります。

付け加えるならば、
アジサイは雨によって色を変えていく花です。

「僕」は「君」の「こぼれる 涙」の綺麗さに
心惹かれて、「愛」に気づくことになります。

「君」への愛情を自覚したその時から、
「僕」の世界は色づいていったのかもしれません。

3.「失恋」とは‥‥?

何度か曲をリピートしていくうちに、
ここまでまとめてきたような曲の世界観が
見えてきたワタクシでございますが、
先の疑問だけは唯一晴れずにおりました。

「これは愛情の芽生えを歌った曲であって、
 むしろ失恋とは程遠いのでは‥‥?」

そう感じずにはいられなかったワタクシ、
新人さんにぶつけてみることにしました。
その返答は以下の通りです。

私は「僕」に恋してるんです
けど「僕」は「彼女」が好きなんです
私は「彼女」になれないんです

(新人さんとのやり取りの一部)

1行目の「僕」は、この曲を歌うアイドル。
ここでは、某犬顔の器用富豪さんです。

2行目の「僕」は、歌詞世界の「僕」のこと。
「彼女」は歌詞中の「君」のことでしょう。

最後3行目の「彼女」は、
いわゆる「彼女ほしいなあ」という文脈で出る、
ガールフレンドという意味の「彼女」でしょう。

つまり、上記3行を察するに、
自分の推しが、歌詞世界の「僕」と同化して、
「君」への愛の芽生えを歌うのを聴いている時、
「私」は「君」へはなりえず、失恋した気分に
なる、ということでしょう。

自分が片想いしている相手が、
自分ではない誰かを好きだと言っている場面を
目撃してしまっている、という状況でしょうか。

ワタクシも楽曲世界に没入する、ということは
ありますが、このようなかたちを理解したのは
正直今回がはじめてでした。

上記記事のように、歌詞世界の主人公と自分とを
同一化して楽曲を享受することはありましたが、
歌い手=歌詞世界の主人公としつつも、その世界に
自分自身が存在しない、というのは新鮮でした。

これは、歌詞そのものの視点の問題だったり、
ファン文化圏の違いだったりするのでしょう。

30歳最後の夜に、新たな出会いと価値観を
教えてくれた新人さんに感謝でございます。

4. おわりに

ガクアジサイ(=ハイドレンジア)の花言葉は
「謙虚」なんだそうです。

なんとなく、歌詞世界の端々からも、
「君」の謙虚さがうかがえるような気がします。
守ってあげたい「僕」と一緒に笑う「君」。
うん。いいですよね。

検索すると、他にも「移り気」などの花言葉も
見受けられますが、この歌詞が一蹴します。

僕の最初で 最後のヒロインなんだ

(timelesz「夏のハイドレンジア」)

つまり、この後に「僕」にとってのヒロインが
出現することは決してないのです。
この段階で、「君」の唯一絶対性が保証されます。

雨の多い夏のしっとりとした雰囲気をまとう、
「愛」の強さを歌い上げる楽曲でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?