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人魚が、報われる話が書いてみたい

御伽話「人魚物語」のあとがき。のようなもの。

理想と現実の折り合いがうまくつかなくて、しんどい時。どこにもぶつけられないやるせなさで胸がいっぱいの時。飲みこまざるを得ない感情を、人はどう消化していくんでしょう。

消化させないまま体内に石を残すか、自分の中の消化酵素を発達させて時間をかけて消していくか。いっそ吐き出すか。

恐らくこれは、一つの消化の話。

* * *

初めて書いたお話は、たぶん、小学生の時の発表会用の紙芝居。
犬と金魚、猫と蝶など、生き物を2つ掛け合わせたキメラたちがわんさか出てくる、愉快でハッピーな話だったような気がします。当時はまだ人見知りを覚える前だったから、グループでの発表だというのに絵もお話も全部自分で描いて、勝手に配役を考えて割り振り、無事発表を終えました。
私が創作の楽しさを覚えたのは、きっとそこから。

それからいろんな作品を見て、読んで。たまに書いてみたりして。人生の転換点も、いくつか経験して。

そうして大きくなった私は、気づけば素敵なハッピーエンドよりも、どこか悲しみを残すメリーバッドエンドの方を好む、ひねくれものになっていました。

「お約束通りなんてつまらない」「こんな大団円の夢を見せられても、現実との乖離に虚しくなるだけじゃないか」「現実はこんな幸せに満ち溢れてない」「ハッピーエンドなんてくそくらえだ」

そう思い始めてから、うまく物語を書けなくなった私は書くことから距離を置きました。

筆を置いて、数年。憧れだった声のお芝居の真似事をかじり始めたことで、何か思い出したのでしょう。私は久しぶりに物語を書きたくなりました。

そうして生まれたのが、『御伽話「人魚物語」』です。


このお話のもともとは、ざっと走り書きしたメモから。

その声で聴きたい言葉を書き連ねるよりも、
ただ私の気持ちを綴る方がいい。

この言葉をあなたが口にすることで、
一瞬でも私と同じ気持ちを思ってくれるのなら、
私はその方がいい。

幻想を押し付ける虚しさよりも、
何も気づかないあなたが
私の思いを口にする皮肉の方がいい。

自分の夢に酔って喜ぶよりも、
何も気づかないふりをするあなたの
声に泣く方がいい。

御伽話「人魚物語」

この文章をお話にしたくて、書き始めた物語でした。

アンデルセンの「人魚姫」をオマージュ作品としたのは、「声」が一つのキーワードになるお話だから。もうこのお話を書いて1年以上経ってしまっているので、記憶が少しあやふやなのですが、確かそのはず。

本当は2人用の声劇台本として書き始めたものでしたが、オチが思いつかないし、書きなれない形ということもあり、いまいち書き進められず。もういっそ、あらすじを整理してみようと書き出してみたところ、何かのスイッチがオンになり。そうして書き終わる頃には、朝になっていました。

この物語を書き上げた時、私はこんな全力で前向きな物語を書けたのかと、自分で自分を信じられませんでした。自分から出てきたものだけど、とてもキラキラしたものを見つけたような。不思議な感覚。そして同時に、「あぁ、だからハッピーエンドは素晴らしいんだな」とも思いました。「生きていくには、たまには底抜けにキラキラした、希望のようなものが必要なんだな」と。「ハッピーエンドは夢物語なんかじゃなくて、願いのような、決意のようなものなんだな」と。きっと、こんな書き方じゃ読む人にはいまいち伝わらないとは思うのですけれど、どうにもこの感覚を言い表す術を、私はいまだに持ち合わせません。

今でもハッピーエンドより、メリーバッドエンドの方が好きです。でも、「ハッピーエンドも悪くない」と、つまらないとは思わなくなりました。

これから先、きまぐれにこの話を読み返す度に、私は人魚さんに歩き方を思い出させてもらうのだと思います。私にとって、これはそんなお話。

読む人に、この人魚さんはどんな足跡を残すのでしょうか。波打ち際の足跡くらいの一瞬だけでも、あなたに何か残ればいいのにと。わがままのように願います。


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