食事

ふと目が覚めると冬だった。昨日はどうだったろうか。昨日もその前も冬だったような気もする。そうであってもなくても、どちらでもかまわないので考えるのをやめた。

コーヒーを飲むことにして、コーヒーを淹れる。コーヒー豆が無くなりそうで、後で買いに行こうと思った。

さて、今日は何をするのだったかと頭を働かせようとしてみるが、特に予定はない。少なくとも他人のためにするべきことは一つもない。約束のない世界で生きている、というのはあまりにも認識が甘いので、そうは思わないが実感としては正しいかもしれない。

ふいに、昔のことを思い出した。とりとめのないことがいくつか頭の中を通り過ぎていく。数分、そのまま思い出たちを遊ばせたが、その後には何も残らない。今、ここにいる自分が全てになり、コーヒーが出来、それを飲み、次の自分を探す。

探しても見つからないので、仕方なく食事を摂ることにした。私の食事は不規則で、日に3回行うこともあれば、丸1日何も摂らないこともある。平均して、1日1食としている。「している」というのは、例えば人に聞かれた際には、そのように答えるということなのだが、食事の回数を問われることを予め想定しているわけではない。自然とそうなった。

というのも、人に聞かれなければ、自分がどのような頻度で食事を摂っているかなど考えなかったかもしれないということで、考える必要があれば考えるのだろうが、そのような必要性がいつ・どのように生まれるかは知らないし、今のところ優先的に考えるべき課題でもないので、会話のために用意した食事頻度を軸にして、自分の食生活をなんとなく把握している。

しっかりと計測してみると実態は違うかもしれないが、そうだとしても誰にも迷惑はかけないと思うし、私自身も特に困ったことにはならないと思うのでかまわない。

食事中に、この後何をするかを考えてみたが、食事を摂った後の私が、食前の私が決めたことに従い実行するとは思えないので、考えることを途中でやめた。

私は私に従わないので、私は困っているのだが、困っている私にも私は従わないのでどうしようもない。常に自分を追いかけているから、中々話がまとまらないし、行動も起きない。

だから、私は強制力というものを頼りにしているのだが、強制力が働きそうになると私が敏感に察知するので、私はするっと逃げてしまう。そのような事を繰り返しているうちに、私に働くべき強制力はほとんど無くなってしまった。

そのことについては、嬉しくも悲しくもなく、いくつかの選択の末に、というものでもないから感慨もない。なし崩し的に今があるだけで、これは完全に私自身の責任であると同時に、責任というものが存在しないことの証明でもある。

どういうことかというのを説明する言葉を持ち合わせていないので、いつかじっくり考えてみるか、などと頭の中が抽象的になってきたところで私は食事を終えて、使った食器を洗った。


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