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言語化するのは何のため?① | 筋トレに寄せて


「言語化が大事」
「言語化能力は高いほどいい」

巷でたいへんよく聞く言葉だが、はっきり言うと、
あの風潮にわたしは大層うんざりしている。

わたしが言語化が苦手だから…では、もちろんない。
他の記事読んでこい。

では何かというと、

言語化するのはもう飽きた。
わたし、テレパシーが使えるようになりたいんだよね。




ーーー




残念なことに、人間はテレパシーを使えない。

だから誰かに自分の考えを伝達したければ「言葉で伝える」しかないし、
それが正確・詳細であるに越したことはない…。

「体力はあるに越したことはないから、
身体を鍛えよう」みたいな話だ。

「伝達力はあるに越したことはない。
言語筋を鍛えよう」。

もちろん、それ自体には賛成だ。

が、筋力が全てでしょ、と言われると、
話は全く違ってくる。それは脳筋の思考回路だ。



言語能力なんて、
個々の能力と相談しながら最低限身についていれば、それで十分健康のはずだ。
それ以上の過負荷トレーニングは…まあ趣味でやってるなら何も問題はないが、

「もっとムキムキじゃないと馬鹿にされる」とか
「相手に想いが伝わらないのはわたしのマッチョが足りないせい」

と、不安や自責の動機に駆りたてられているのなら、
それはこの世で最も不健康な動機付けだ。さっさとやめた方がいい。

というか、やめてほしい。
いや、あなたの心が一番大事なのよ、みたいなスイートな話をしているのではない。

「言語化できないとダメ」という不安に栄養を与えてしまった人間は、いつか必ず「言語化できないとダメ」という同調圧力に進化する。

害悪の種を発芽させるな、と言いたいのだ。わたしは。



そういう視点が、言語化言語化と手放しで万歳三唱する人々には足りていないように見える。

本当に言語化がうまいなら、

あなたがあなたの言葉で伝えられればそれでいい。
あとはできなくても、できても、自由だよ。


という優しい前提まで“言語化”できて然るべきだが、
それができない程度では、有用な能力とは言えない。

脳筋、いや筋脳と呼ばせていただけますか?



…でもそれはそれとして、
他人にコーチを求めるばかりではいけない。

自分で自分の「最低限」を知っておくのは、非常に大事なことだ。自分の健康は自分で管理するのが自立した大人というものだろう。

だから、一度想い返してみてほしい。

誰に何を伝えたくて、
あなたは言葉を覚えるのか。


その願いは案外、とっくに達成できていたりする…
どうせ育てるなら、そっちの種を大切にしてほしい。

前編おわり。




ーーー


ちなみに、

わたしの過負荷トレーニングは純然たる趣味だ。

わたしが伝えたいことを本気で誤解なく詳細に伝えようと思うと、
これまでわたしが趣味で鍛え続けたボディビルダーばりのトレーニング内容…
つまりタイトルだけでなくその周辺知識まで盛り込んで相手に展開・理解してもらう必要があるのだが、

そんなの、
伝える側のわたしでも想像しただけでうんざりする。
情報量があまりにも多すぎて、引用を辿るのもすべてを文字記号に置き換えるのも心の底からめんどくさい。

端折るか圧縮するか、あるいは直接頭に流し込むのが書く側としては圧倒的に楽…
まあ…必要なら置き換えは頑張るが、
テレパシーが使えるようになりたい、というのはそういう意味だ。

たぶんわたしより言語筋がない人はその重量に耐えられないし(それでいい、それが普通だ)、

逆に、同等以上の筋力がある人は、そもそもこんな文章に興味はないだろう。
既にその人自身が頑強で豊かな世界を創出しているはずで、そしてわたしはたぶん、その質量を一瞬では理解できない。

要するにわたしは毎度毎度(誰が読むんだこれ)と思いながら文章を書いていて、

その思考と行動が両立できるようになれたのは善いことだ(昔はそうじゃなかった。その辺もどこかで書けたらいい)。

そしていざ書く側に回ってみると、
つくづく、

わたしだったら「なんで伝える側がそこまでケアしないといけないんだ、自分でバルクアップしろ」と投げ出すような細部の機微・情景・周辺知識を懇切丁寧に、膨大な記号量を以て伝達しきってくれている人は、
素晴らしく自立していて、そして優しいと想う。

わたしももうちょっとそうなった方がいいよ。

はい。努力します。


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