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「違っている」ことは、うれしくてたのしい | エゴとは何か【2024年版】


まえにこちらの記事で「エゴ(自我)とは何か?」について個人の見解で触れたんだけれども、


個人的に、これがえらくスッキリまとめられてて反出生へのアンサーにとどめるのはちょっともったいないな…ということで、
改めて加筆修正版をリリースしておきます。

最後の方、大幅に加筆した。よかったら読んでね。



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巷では「エゴ=わがまま」みたいな用法ばかりが溢れているが、
実は本来そんな意味ではない…というか、間違いではないのだけれども狭義すぎるかな、と感じる。

結論から言うと
エゴ(自我)とは「流れを変える力」全般の総称だ。

「拒絶・反発する」「分離する」「区別する」
「覆す・這い上がる」とかで言い換えることもできる。
「止める・速める」もそうかな。

まだ抽象度高いか。
日常レベルで言えば、

適当に生活してたら体重が増えたのでダイエットして痩せたとか、
歯を食いしばって猛勉強をして難関資格に受かったとか、

こういった「努力」と呼ばれる行動もエゴの産物だ。

逆に、エゴ=わがままとして悪者にされがちなのは、

スーパーのお菓子売り場で延々と駄々をこねるとか、
彼女にふられたのが受け入れられずストーカー化するとか、

エゴのマイナス側面は強烈に人をうんざりさせるので(その力が大きいほど暴力性と事件性が増す)、その悪印象が一人歩きしがちなのだろう。



ついでに
個人からクソデカ集団へ規模をスライドさせてみると、

エゴは人の文化の大事な一要素だったとも言える。

「海を越えた景色を見たい」
「夜でも灯りが欲しい」
「持ち上げられない重さを運びたい」
「このままでは死んでしまう子の病気を治したい」
「みんなが飢えないよう食物を保存したい」
「敗戦で焼け野原になった自国を復興させたい」

時々厳しい自然をただただ猿っぽい生き物として享受するだけでは、これらの望みは叶わなかった。

彼らが自然に存在しないものを望んだ結果として子孫である我々は山積みの問題を抱えることになってしまったわけだけど…
その願いは1から10まで「悪」だったかと言うと、そこには甚だ疑問が残る。

だってその願いが実現した結果、
軟弱極まりなくて、発達や精神や人格に難がありすぎる、わたしのような現代っ子が淘汰されずに生きているわけだし。



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若干話が逸れた。
まとめます。

エゴはそれ自体は「よいものでも悪いものでもない」。
全ての人類に備わっている、ただの精神エネルギーだ。

その力を存分に燃やして突き進むべき場合もあれば、
素直に流れやタイミングを受け入れて、自分のエゴは羽交い締めにしてでも---「我慢」してでも押さえ込んだほうがいい場合もある。
ただ、それだけの話。

…そうすると当然、
「じゃあ、どうしたらその状況を正しく見極められるんですか?」
という疑問が湧いてくると思うんだけど、

それは、正直に言おう、

人によって違う。

ここからは、理論ではなく実践の領域だ。

「なんやねん肝心なとこ濁しやがって」と思うかもしれない。それはすごいわかる…が、少し考えてみてほしい。

人はみな個別に---文字通りひとりひとり、80億通りの---個別の身体、得意・不得意、興味の方向や、生育環境と文化スキーマなどが組み合わさってできているのに、
誰かのメソッドや思想が1から10まで完璧にフィットするなんて、逆におかしくないだろうか?

ここを履き違えると「同調圧力」という問題が起こるのだとわたしは思っていて…
不用意に、「これが全員に共通するたった一つの正解だ」などという誤解を孕む発言をしたくない。

わたしも含めて、誰かひとりのいうことに従ってほしくない。
色んな人から、色んないいとこ取りをして、オーダーメイドの自己を創造してほしい。

それが個性を尊重することであり、真の多様ではないだろうか?

だからあえて言うけど、
あなたのその選択がエゴかどうかは「わたしが判断することじゃない」。同じ状況でも、本人の性格や人生背景によって導き出される答えは少しずつ違ってくるから。

いや、違っていなければおかしいから。



…その上で、

大まかな見分け方はあるのでそこを書いておこう。

「エゴ=流れを変える力」だと最初に書いたが、
ここにすでに”ある前提”が含まれているのはわかるだろうか。

世界にはエゴと並び立つ「自然の流れ」が存在し、
エゴとは常に後出しで、自然に逆張りして対処する力である、

という前提が。
(これは見えない意識の話だが、生物学でいう”動的平衡”とほぼ同じイメージでいいです。)

だからエゴを俯瞰したいなら「流れ」を掴めるようになればいい。

…と言っても、
それはそれでなんやねん!ってなるよね。
そうだよね。いやね、わたしもそこはまだ検証中で間違ってるかもしれないんだけど…

「それ」はおそらく、

快であり、安心であり、YESであり、
増大であり、拡張であり、情熱であり、
成長であり、進化であり、未来であり、
「否応なく全方向へ進み続ける立体」…

…なのではないだろうか。

「そこ」から外れる力は全てエゴで、


そしてエゴという自由が許されているからこそ、
違っていることは嬉しくて、楽しい。




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…それが流れを見るということ。

自己肯定や受容のその先のフェーズ
---自己変容の入り口だ。


いや、フワッとしてるよね…。でもこれ以上は語れないんだよね…。
ごめんね…。ニュアンス伝わるといいな…。



わたしは……

好きでがむしゃらに思想を食べ続け、
たまたま運よくその入り口へ飛び込んだ(そして気を抜くと弾き出される)。

でも、ここまで行き着く人は、まだまだ少ないらしい。

そうだろうな。誰に何を教わっても、最後はひとりで到達するしかなかったもんな。

でも、わたしは寂しがり屋だ。
これからそういう人とたくさん知り合えたらいいな。


読んでくれてありがとうね。

おわり。




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