読書感想:海神の子文庫版~人が生きる糧としての“物語”を与える者
今日はほぼ一日じゅう、文庫版海神の子を読んでました。
今年に入ってから、SHOGUNを見たり両京十五日を読んだりしてたので、ハードカバー版を読んだとき以上に世界観を掴みやすくなってました。
「まだ存続の可能性はあったのに何で滅んじゃったの?」と言いたくなるような、完全に自滅としか言いようがない、史実とは思えないようで実は史実そのものという明の滅び方を、両京十五日の面々が見たらどう思うか。
朱瞻基が見たらさめざめと泣くでしょうし、そんな瞻基を呉定縁は頭痛に耐えながらなだめて、于謙は暗君どもと奸臣どもへ入れる尻バットの素振りをはじめ、“あのキャラ”はといえば指さしてゲラゲラ笑ってそうです。
ま、それはさておきまして。
明末清初の激動期に、それぞれの事情で陸の社会から弾かれた海賊たちの居場所を作ろうと智謀知略と大志を抱く“国姓爺”鄭成功こと福松ですが、やることなすこと何ひとつうまくいかない。
実際、知恵はあるけど足元が見えず希望的な観測だけで行動して、肝心要の部分でいつもしくじる。
まるで天そのものから嫌われてるとしか思えないこの艱難辛苦は、彼らの事業、あるいは理想の起こりが「嘘をつくこと」から始まったから、そして、その嘘を通すために別の嘘を塗り固めていくことを積み重ねてるからかもしれません。
ではなぜ、福松が何度も何度もしくじりながら、そして敵である清の天下は定まってるのが明らかながら、何より海賊たち同様に自分たちを悪政で苦しめた明の再興を掲げて失敗を重ねる“国姓爺”に、勢力圏内外の人々はなぜ熱狂的に忠誠を尽くし軍を支えたのか。
多分それは、“国姓爺”の名前と存在そのものが、衣食だけは足りない「人が生きるための糧」としての“物語”となっていたからなんでしょう。
それは、福松の母、“倭刀”の松が南海の海賊王鄭一家の“媽祖”になったことと同じなのかもしれません。
だから福松は幼き日に友達と共に布袋戯に夢中になり、彼自身も浄瑠璃の主人公となっていった、そういうことなんでしょう。
それにしてもこの話、何とか映像化できないものでしょうか。
このスケールが大きい話、もし映像化するんだったら、それこそSHOGUNばりに潤沢な予算と多様な人員を集められる海外資本で製作して連続ドラマにして、ディズニープラスやNetflixなどで配信する方が面白い作品になりそうですね。
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