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“英雄伝説”のアンチテーゼ~七人の侍とスターウォーズ続三部作考察

2月11日にBSプレミアムで『七人の侍』が放送されました。

この映画については今更説明する必要のないほどの名作ですが、名作の名作たる所以は、見るたびに新たな発見があること。そして、今回の“発見”は、この映画の世界観が、スターウォーズの続三部作(EP7~9)のそれが深い部分で相通ずるということでした。


英雄たちの同族殺し

『七人の侍』の名シーンのひとつに、野武士の襲撃で孤児となった百姓の子供を抱きかかえた菊千代(これまた有名ですが、彼自身もまた百姓の生まれ)が「こいつは俺だ!」と叫ぶ場面があります。

そして、実はこれは他の、年少の勝四郎を除く戦場経験のある5人の侍から見た野武士たちについても同じことが言えるはず。

あの野武士の頭目が勘兵衛であっても、その中に五郎兵衛や七郎次が混ざっていても何の不思議もなかった。そうならなかったのは、単に巡りあわせにすぎなかった。

これまで繰り広げたのは、百姓という他者のために、「もうひとりの自分自身」を殺す戦いだったと勘兵衛はわかってしまった。だからこそ戦死者の眠る土饅頭の前で「またしても負け戦だった」と憮然として呟いたのでしょう。

そして、この「同族殺し」の構図は、帝国軍の残党を母体としたファーストオーダーと、様々な事情で「腹をすかせた」者たちの寄り合い所帯であるレジスタンスにも当てはまります。

スターウォーズ続三部作もまた、実は『七人の侍』と同じく「同族殺し」の戦いだったと言えます。

百姓ほど悪ずれした奴はねえんだ! だが、だれがそうさせた!

スターウォーズ続三部作、そしてスピンオフ『ローグワン』『ハン・ソロ』では、帝国の圧政を挟んでクローン戦争と銀河内戦というふたつの大戦で傷ついた銀河のあり様が、様々な形で表現されました。

ギャングまがいの元締めの支配下で砂漠の古戦場に埋まるヴィークルの残骸をあさって生きるスカベンジャー、暴力で得た汚れたカネにまみれて生きるギャングに密輸業者、華やかな歓楽街と対照的に汚れた馬小屋で奴隷まがいの重労働を強いられる少年たち、正義も悪も関わりなく状況次第で容易く手のひらを返す無法者、最愛の存在を奪われた世捨て人。EP8のローズは、まさに、続三部作の時代に生きる「戦争に痛めつけられた果ての人々」の怨念を象徴する存在でした。

そんな銀河の英雄ならざる人々は、『七人の侍』の百姓たちと重なります。

決して豊かでもなければ美しくもない、むしろ狡猾さや卑屈さ、その裏腹の怨念。でも彼らをそうさせたのは誰か。侍たちであり、分離主義勢力、共和国軍、帝国軍、反乱軍、ファーストオーダー、レジスタンス、そしてジェダイといった“英雄”たち。

菊千代の「百姓ほど悪ずれした生き物はいねえ! だが誰がそうさせた!」という叫びは、そのままスターウォーズの“英雄”たちの銀河の人民の本音でもあるでしょう。

勝ったのは我らではない。あの百姓たちだ。

EP9の最終決戦での決着は、ファーストオーダーにとってもレジスタンスにとっても「またしても負け戦」でした。ファーストオーダーはその背後にいた邪悪もろとも敗亡し、レジスタンスもまた決戦の中で最後に残った同志の大半を失い、指導者のポー・ダメロンも一度はくじけました。

勝ったのは「あの百姓たち」、すなわち“人民の艦隊”でした。あの艦隊の登場が壮観だったのにどこか感情移入しにくかったのも、彼らの本質はレジスタンス=侍たちの側ではなく“百姓”たちという他者の側だったから。そう考えることもできます。

“英雄伝説”へのアンチテーゼ

『七人の侍』もスターウォーズ続三部作も、随所に100%の善は存在しないという世界観でした。(スターウォーズEP9に限っては「100%の絶対悪」は再臨しましたが)

その世界観を根幹として描きたかったのは何か。それは「英雄という少数の特別な存在」に「力を持たない哀れな多数の民」が指導され救われる(あるいは英雄の敗北により世界は闇に包まれる)という英雄伝説に対するアンチテーゼとなる物語だったのではないでしょうか。

続三部作のこの点が旧作との決定的な相違点であり、「新たな英雄伝説」を求めていた旧作ファンから続三部作が痛烈に批判され、同時に幻に終わったトレボロウによるEP9案が支持される最大の要因となっているのでしょう。

しかし、個人的にはこうであればこそ、一度は完結宣言の出されたスターウォーズを新たな価値観で語りなおせた、今この時代に再度制作する意義はあったとさえ考えています。

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