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午前十時の映画祭13ファイナル 海の上のピアニスト

 今シーズンの午前十時の映画祭のラストを飾る作品が「海の上のピアニスト」だったので、土曜の朝ではありましたが早起きしてシネマシティ立川で見てきました。
 この映画を見るのって、多分10年ぶりくらいじゃないかなあ。久しぶりに見ましたが、やはり良い映画です。
 今回は4Kリマスター版に加えて、シネマシティご自慢の極上爆音上映だったんですが、そのおかげでテレビで見た時より色々と違いを感じました。
 具体的には、「音」ですね。
 メインキャラ以外の周囲の人々の声や物音、廃船の軋み、そして海の波や風や雨といった環境音。
 そういった音のひとつひとつが丁寧に拾われていたのがわかりますし、これを1900は“音楽”の譜面として捉えられた、そのセンスが彼を“海の上のピアニスト”にしたんでしょう。
 良い映画ってものはやはりスクリーンで見るのがベストだと改めて感じました。

 さて、この映画を久しぶりに見て感じたこと、見えたように思えたことがいくつかあります。
 今日はそれをまとめてみました。

ジャズエイジの象徴としてのマックスの青春時代

 この物語の語り部マックスが客船ヴァージニア号のトランペット奏者として雇われた(若きマックスの「俺を雇う機会を与えてやる」というくらいの自信満々ぶりを示す面接事務所での演奏シーンは実に痛快でした)のは1927年。
 この時期は、アメリカ社会がかつてない繁栄を享受していた、あのジャズエイジが最盛期を迎えようとしていた年でした。

 ジャズエイジは禁酒法とギャング抗争の時代でもあり、新興メディアであるラジオの普及によりニュースを消費し続けるイエローメディアの時代の先駆けでもあり、なにより皆が株式投資に狂奔するような時代でもありました。
 それでも、「何か新しいことが始まることは間違いないし、それはきっと良いことなんだ」という確信に満ち溢れていた幸福な時代でもありました。
 そしてその確信は、「良いこととはカネと名声が手に入ることだ」という前提、価値観の上に成り立っている。そのことにマックスは船を降りる時、言うまでもなく世界恐慌を切っ掛けにジャズエイジが終幕を迎えていた1933年まで、なんの疑問も感じていませんでした。
 青春時代のマックスは、アメリカという国の“古き良き青春時代”の具現でもあった。
 そして、かつての野心の友だったはずのコーン製トランペットを小銭と引き換えに手放すほどに零落したマックスと、華やかな“水上の都市”だった頃とは裏腹の、戦争の惨禍を煮詰めていたであろう病院船として徴用され廃船として爆破自沈処理されることになったヴァージニア号の姿は、傷つき疲れやつれ果てたジャズエイジの後のアメリカ社会だったとも言えるでしょう。

なぜ1900は船を降りなかったのか、あるいは彼が悟ってしまったことは何か

 初めて見た時から、実はわかるようでよくわからなかったのが、「なぜ1900は船を降りなかったのか」でした。
 でも、今回のリバイバル上映を見ていて、それってこういう事なんじゃないかってことが浮かんできました。
 マックスが語るようなカネと名声ではなく、初恋の少女との再会のためかどうだったもわからない。それでも1900は意気揚々とタラップを降りようとしていました。
 その1900の前に広がった光景と、見えなかった無限の存在。それを彼は無限の鍵盤のピアノと例えました。
 ピアノには、必ず演奏者がいます。そして、無限の鍵盤のピアノを演奏するには、無限の手と、無限に続く楽譜が必要になります。
 そんなピアノの前に座り演奏できる存在、それはしかいません。
 神とは何か。それは、無限の楽譜による曲を、無限の手によって、無限の鍵盤を持つピアノで演奏し続けるピアニストである。1900はそのように悟ったのではないでしょうか。
 そして陸で、船の外で暮らすということは、このピアニストと連弾し続けるということそんなことができるわけがない!
 彼はそう悟ったからこそ船を降りることができなかったのでしょう。

 そして、自分と次元の違う存在を知り打ちのめされる体験をした人物が、この物語にはもうふたり存在します。
 かつてのジャズエイジ、“ジャズの発明者”ジェリー・ロールは1900に「ピアノの決闘」を挑み、そして余計な一言を言ったばっかりに完全敗北しました。この敗北とは、単に周囲の観客が1900の方に喝采を浴びせただけでなく、ジェリー自身の感性がその音楽に圧倒され、取り込まれたことをはっきりと自覚したことにあります。
 そして同時に、決闘に勝利し喝采を浴びた友人に駆け寄るでもなく、遠くからほろ苦い表情で眺めることしかできなかったマックス。
 マックスもまた一流のミュージシャンであればこそ、自分たちと1900の領域が異なることが理解できたのです。

 そして青春時代に一流のミュージシャンの心をへし折った1900が、あのタラップの上で、超一流のピアニストであるからこそ、より高次のピアニストを認識し心をへし折られることになってしまったのです。

理解できない相手とも友情は成り立つ、そして理解できてしまったから説得できなくなる

 マックスにとってヴァージニア号で出会った1900は、終始理解できない存在でした。
 世に出てカネと名声を得ようとせず、誰かと恋をして結婚しようともせず、上陸時の楽しみにも加わらず、ついに船の上から降りようとしない。どこからどう切り取っても、1900の人生と価値観はマックスたちの常識の埒外でした。
 それでも、マックスにとって1900は一生に一人の友人であることに変わりはありませんでした。
 だから、理屈を無視してもマックスは、爆破されようとする友人を助けるために奔走します。それこそ楽器屋の親父に銃を向けられても怯むことなく、1900の一生の思い出の曲を封じたレコードの原盤を取り戻そうとするくらいに。

 そんなマックスと、彼の前に姿を現してくれた1900の最後の対話を見ていると、理解できない相手同士であっても友情は成り立つんだということが感じられます。そこは大きな救いでもあります。
 それと同時に、真の友情とは相手を理解することだというなら、1900を真に理解できてしまったとき、彼の言葉も身体も、彼を船の外に連れ出し助けるどんな可能性も失ってしまったという悲しい皮肉も生じます。

 そんな皮肉を飲み込んで去るマックスと、天国の門へ向かう前に彼へ最後のジョークを送る1900。青春時代はとうに過ぎ去っても、その友情は変わらないままの、その姿は胸に響きました。

祝日を活かしてご覧いただきたいです

 午前十時の映画祭13のフィナーレを飾るのも、当然だと思えるくらい良い映画でした。
 上映期間はそう長くありませんが、来週の水曜日は春分の日で休みという人も多いでしょう。
 この機会を活かして、この映画を是非ともご覧いただきたいです。


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