痛みと共に生きる

一月の誕生日で55才になる。
物心ついた頃からずっと身体のどこかが痛い。
18才、合気道を始めた。関節技の度に痛い。筋肉痛は状態的にあり、また首という首、首、手首、足首が痛い。7年間目に二段を取得したが、痛みの質は変われどどこかしこが痛かった。そしてその分間違いなく成長できた。
23才、インド古典舞踊を始めた。これまた痛みとの闘い。まず大地を踏みしめる足の裏が痛い。ステップを踏む時に支点となる踵はもう痛いのなんの。肘を上げた腕のポジションキープ。肩が痛い。間違えるとヤバい痛みが走る。インドで師の宅に住み込みで稽古の日々。痛みがあろうとなかろうとやってくるレッスン。バンテリンのインドメタシンと友達になった。インド人の受講生に尋ねてみたら、「肩が痛いことなんて当たり前だ。痛みは来ては去る。」と。達観している。そうこうしている間に、踵には分厚いタコができ、強く踏んでも痛むことはなくなり、肩は痛まずに腕をあげる狭いすきまを、身体が会得したようで、徐々に痛みから解放され、徐々に舞踊の質も深くなっていった。
18才、エレキギターを始めた。ひたすら運指練習。指先が痛い!これも「ギターダコ」が出来ることで解消。タコが出来るほど弾いた頃、なんとなく弾けるようになっていた。
35才、アコースティックギターの弾き語りを始めた。なんと、エレキよりも遥かに太く、硬く、テンションの高い鉄弦。エレキギターのギターダコでは太刀打ちできない。痛みに耐え、練習すると初めて薬指先に血豆ができた。さすがにその次の日は弦に触れることもままならない程痛い。それが治まると、人の体は良くできたもので、さらに厚いギターダコが出来た。ようやくアコギの弦にもなれたころコードチェンジを手元を見ずに出来るようになった。でも、アコギは手強い。油断してしばらく触れていないとすぐにまたヤバい痛みが指先に走る。これはもうギター弾きが背負う宿命なのだ。マメに練習してギターダコを養い続け、少し痛いギターライフを送るのか、サボってリセットし、メチャクチャ痛いところから再び痛みがマシになるまでギターダコを育むか、あるいはギターを諦めるか。究極の三択なのである。僕はギターを弾き続けると決めているので、もはや痛みから逃れることは出来ないのだ。
54才、ヨガを始めた。まさかヨガがこれほど痛いものだとは予想だにしなかった。ヨガは癒しのイメージとは程遠いものだったのだ。可動域を拡げていく時の痛みはもちろん、筋膜を伸ばした後に訪れる筋肉痛がとんでもない。筋肉を収縮させる時よりも深い痛みが、エキセントリック運動、つまり筋膜を伸ばす運動の後に訪れるのである。ハムストリングの痛みは、約4ヶ月間去ることはなく、車の乗り降りすらホウホウノテイである。その痛みはなかなかしぶとく、ストレッチをすると一時的には和らぐもの、身体が冷えるとまた元に戻る。クエン酸を摂取したり、入浴したりして痛みを和らげながら付き合うしかない。受講生の仲間が言った。「愛すべき筋肉痛」と。筋肉痛こそが成長の証なのである。
そう頑張らなくとも現状維持でよいではないかと思うこともあるが、残念ながらそれは甘い。ヒトという生き物は、日々新陳代謝するため、放っておくと何かが失われていく。現状維持はすなわち後退であり、何がしか成長し続けないと、実は現状維持すら出来ないのだ。つまり、身に付けたスキルを維持するためには、筋肉痛から解放されることはないのである。
今日は、手首が痛い。このところアームバランスやブリッジのポーズを深めるために手首を酷使しすぎていることは分かっている。痛みの原因はハッキリしている。そしてこれは筋肉痛ではなく、関節の炎症だということはこれまでの経験から分かる。一方、医療にこの痛みを治す術がないことも知っている。いわゆる日にち薬である。では手首の痛みが無くなるまでプラクティスをしないでいるかというと、そんなことは不可能で、ヨガの宿命として毎日の修練でこそ、身体に成長があるので、修練はやめられない。痛みを俯瞰しながら、可能な術を探るのである。これまたヨガの修練なのだ。おそらく自然界の生き物も身体のどこかを傷めたとて、止まってしまえばそこに待っているのは死なのであるから、私たちヒトも、痛みを抱えつつ生きていく方が自然界の摂理に叶っていると思う。
こうして、半世紀以上生きて、合気道は残念ながらもう今はやらなくなったが、ギターと舞踊とヨガは同時進行で深めていくとう選択をしてしまった今、指先の痛み、筋肉痛、時折訪れる関節痛とは共存していくしかないのだということを、悟った。あ、忘れていた。僕は椎間板ヘルニアを20台後半でやらかしたので、発作が定期的に訪れる。さすがにヘルニアの発作は一回出ると一週間はまともに動けないので、発作が出ないよう普段から細心の注意を払っている。これは随分とコントロール出来るようになった。
つらつらと痛みについて書いてしまった。
そろそろまとめよう。痛みなくして成長なし。痛みは成長の証。いい感じの痛み、ヤバい痛み、見極めながら、医者にも世話になりつつ、キンカンを常に傍に置き、これからも痛みと共に生きていこうとまた決意を新たにした今日は、3ヶ月間受講した朝活ヨガの最終日であった。
これまでの気付きと学びを、師と友に感謝しつつ。


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