「成長」への違和感

成長という言葉が嫌い。
自分を成長させたい。こんな事を平気で言えるやつはどうかしていると思っていたし、今でも思う。

まず、自分がなぜ成長という言葉に異常に反応してしまうか。の解釈。
目的と結果が入れ替わっているから。
成長が目的として使われる事がおかしい。
気の向くままにやってみた、その結果として新しい事ができるようになった。上手くなった。(成長した。)
成長は結果であって欲しい。
ここが入れ替わっていた事に後から気づいたら、きっと吐いてしまう。

どうして成長、成長と宣うのだろう。
ありきたりになってしまうが、やはり資本主義に起因する価値観なのだと思う。
人間が前向きに、生産的に生きるために資本主義は適しているとなんとなく理解はしている。

でも、なんで毎日毎日、より良くなっていなきゃいけないのかわからない。
農耕時代に戻れというわけではない。
今のままを保つじゃだめか。
現状をキープします!という政治家が居たら、確実に落選するだろうけど、面白くて信用できる。

楽したいから皆んな頑張ってるのかと思いきや、ロボットに任せるのは簡単なことだけ。
結局、人間は暇になるどころか求められる能力が高度化、複雑化している。(もはや抽象的過ぎてよくわからないところまできている。)
ロボットに大変な事は任せて、大いに暇を謳歌させてもらえるわけではなさそう。

結論、精神的に満たされる。満たされた様に感じるからだと思った。
少しずつマシになっていると思えば、自分の気持ちが動かない、くそつまらない時間に対して何か有益なことをやった気分になれる。
人って弱いというかなんとも満たされず、難しい袋小路みたいな存在だと思う。

社会人になって、やりたくない・楽しくないことをしている自分。
そんな自分を自分で否定できる人は少ないから、なんとか肯定しようとして、本当はやりたくなった事を正当化してしまう。
そうなってしまいそうで怖い。 

23歳、青二才なりの解決案。
元から楽しいことなんてどれだけあったか。
やってみる前から楽しかった事なんてどれだけあったか。
分かってくる、工夫する、上手くなる、続ける。
大抵のことはこれらをやってるうちに楽しくなってくると思うし、思いたい。

楽しい事をするしかないから、ちゃんとやって楽しみを見出す。
余程無理なら辞める。
これで成長が目的になる袋小路から出られると信じたい。

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