ちるらん

「なぜ、花は美しいのだろう」

 かつて、そう問うた友達がいた。まだ、小学生の頃だった。

 そのとき僕たちは、寺の参道にある桜並木を歩いていた。ソメイヨシノは世界を滲ませる効果がある、と僕は思った。花の精の微細な粒子が空気中に漂っていて、それが呼吸の度に僕の肺に入ってくるようで、何となく息苦しかった。花びらは風で散らされても無限にあるように、ゴツゴツとした枝を彩っている。

 僕は空を見た。太陽が、空の高いところに輝いていた。その光にすら匂いがあるように感じられるほどに、辺りは生気に満ちていた。

 三月の終わり、祝福された季節。このどうしようもない遣り切れない世界にも、少しは救いがあるのだと思うのは、僕だけではないはずだ。あの問いから二十年ほどの時がたち、あまりにも世界は変わりすぎてしまったが、桜の花はまだ咲いている。いや、人間の手が回らなくなった分、本来の野生を取り戻したかのように、枝葉を縦横に伸ばしていた。

 小学生の僕は、友達が何を問おうとしていたのか、その真意を理解できなかった。だから、習い覚えた生物学の知識をしどろもどろになりながら喋っただけだった。花は、昆虫をおびき寄せるために美しくなったんだよ。昆虫に、受粉を媒介してもらわないと、子孫が残せないからさ。

 友達は、僕の答えに一応は頷いた。だが、その目にわずかに感じられた震えが何だったのか、当時の僕には分からなかった。

 彼は、哲学者だった。今の僕ならそう思うだろう。

 花が美しいのは、確かに昆虫をおびき寄せるためかも知れない。花があのように咲き誇るのには、完璧な理由付けがあるに違いない。生物学的には、究極的には、「子孫を残すため」だろう。だがなぜ、子孫を残さねばならないのか。ただ、無為に生きることなく、子孫を残すことを、神は強いたのか。

 それに対する答えは、とりあえずある。生き残ろうとあがく生物の遺伝子だけが、現在まで生き残ってきたからだ、と。子孫を残そうとしない遺伝子は、当然途中で途切れてしまったから、現代に残されているのは、当然子孫繁栄へのプログラムをもつ遺伝子だけなのだ、と。

 だが、それはあの友達の問いへの答えとなっているだろうか。ある一つの現象への原因など、いくらでも付け加えることが出来る。例えば、花が美しいのは、人間に自分たちを管理させ安定した生を享受するためだ、ともいえるし、宗教家なら、神が人間を救うために美しいものを作った、と言うかもしれない。だが、原因と結果の間にある大きな断絶に、彼は気がついていた。

 理由などなくとも、世界はそうであるにすぎない。花を美しいと感じる時の、脳細胞の働きを完璧に知ることが出来たとしても、それは「美しいものが美しい」ことの理由にはならない。原因を追いかけて、最終的な原因にたどり着いたとしても、それがなぜ起こるのかについては誰にも分からないからだ。

 つまり、彼の問いは普通のやりかたではこたえられない種類のものだったのだ。そのことに、気がつくまでに、僕は二十年もの時を費やした。そして、今もその問いに応えようとしている。

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