入れ子の世界の王

6・36311 太陽が明日も昇るだろうというのは仮説である。ということは、太陽が明日も昇るかどうかわれわれは知らないのである。
       ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』より。

 コンクリートのビルや、アスファルトの地面をも凍らせるような氷雨が降る夜中、ボロボロのコートをまとった少年が一人、コンビニエンスストアの前に立っていた。ガラスを透過してくる店内の青白い明かりに照らされたその姿は、まるで幽鬼のようであった。目は何かの感染症からなのか、赤く充血し、手のひらには無数のあかぎれができていた。
 無慈悲に降り掛かる雨粒が、細い首筋を伝い、全身をびしょ濡れにするのだけれど、そんなことはおかまいなしに突っ立っている。コンビニに立ち寄るかどうか迷っているお金持ちの客は、彼の姿を見ると、眉をひそめて去っていった。営業妨害だ。
 店内のバックヤードで、温かいコーヒーを啜っていた店長は、少年の姿を監視カメラの映像の中に見つけると、杖をついて店から飛び出してきた。一歩踏み出すたびに苦々しい顔になるのは、膝が悪いためだろう。
「君、うちの店に何か用かい!」
 若い時分には格闘技をやっていた店長は、そのガタイで少年を威圧した。だが、少年は動かない。店長は舌打ちする。
「君がいると、お客さんが入ってこられないんだよね。どこかへ行ってもらえるかな」
 店長は少年を睨みつけた。無意識のうちに、左手に握った杖に力がこもる。だが、少年は、虚無を宿した瞳で店長を見つめるだけだ。何も言わない、何の動作もしない。
「君ねぇ、警察を呼ぶよ」
 店長は、ヒステリックに叫んで、アルミの杖で地面を叩いた。すでに、セーターに雨水がしみ込み始めている。店長は身震いした。
 少年が、近頃増加しつつあるストリートチルドレンの一人であることは間違いなかった。彼らは排除されるべきゴミだが、しかしそうしたゴミの犠牲のもとに自分たちの生活が成り立っているという後ろ暗さがないではなかった。あえて富の偏りを作ることで、この国の経済は成長を取り戻したのだから。
 店長は、自動ドアの前に立ち、扉を開けた。中にいる店員に声をかけ、賞味期限切れの弁当を一つ、持ってこさせた。
「ほら、これで勘弁してくれ」
 ビニール袋に入ったそれを、少年の鼻先に突き出す。少年は、それを両手で抱えるように受け取ったが、まだ動かない。頭を下げることもしない。
 店長はまた舌打ちをした。こいつは疫病神だ。ずっとこういうことをして生活してきたに違いない。
「本当に、警察を呼ぶよ」
 店員にペットボトルの暖かい飲み物を持ってこさせ、少年に渡した。それが、味も素っ気もない特売の緑茶だったのは、彼らの精一杯の嫌がらせだった。
 少年は、御礼も言わずに立ち去った。

 少年は、雑居ビルが立ち並ぶ薄暗い路地を駆ける。昼間はパソコンのパーツや、ゲームソフト、メイドカフェなどの店で賑わうこの界隈も、真夜中はシャッターが降ろされ、ただ常夜灯が灯っているのみだ。
 鉄道の最終列車が走る。その列車が走ってきた方向には、一日中明かりの消えることのない超高層ビルが立ち並び、雨で滲んだ光を夜空に向けて放っていた。夜景は、あまりにも記号的で、貧相で悪臭のする少年とはまるで対照的だった。
 少年は、漠然と想像する。
 この同じ地面に、見たこともないハイテク機器に囲まれ、味わったことのない料理を食べ、感じたことのない快感に溺れる人たちがいるということを。少年のようにダンボールの布団ではなく、柔らかい不思議な素材でできたベッドで眠る人々がいるということを。
 少年とその人達にどうしてそんな差が生まれてしまったのか、それを認識するだけの素養を彼は身につけていた。彼は打ち捨てられたパルプマガジンを読むだけの識字力と想像力を持ち合わせていたのだ。パルプマガジンには、三文小説家の三流の想像力が書き付けられているだけだったが、それでも社会を俯瞰して見つめられるだけの力を与えてくれたのだ。にもかかわらず、こんな貧しい生活から抜け出すための運のよさを、今まで手にしたことはなかった。

 彼は、迷路のように入り組んだ路地を駆け抜けていく。警察だって、裕福な奴らだって、この道がどこに抜けるのか分かるまい。こんな道を使うのは、ストリートチルドレンか、ドブネズミか、野良猫ぐらいのものだ。泥棒まがいのことをして、何度か警察に追いかけられたこともあったが、雑居ビルの裏手に回り込めば、決して捕まらなかった。
 この町の暗部を把握しているのは、警察でもヤクザでも、政治家でも商売人でもない。彼のような小さな乞食だけだった。少年は、親と死に別れてから、もう何年もこんな生活をしていた。新しいビルが建つのも、そのビルのテナントが経営破綻して夜逃げして、その後廃屋になっていくのも何度も見てきた。
 そんな少年が自らの視線の先、パイプが密集し、空調の室外機がうなり声を上げるその何でもない路地に、何かゆがみを感じたのは、だから必然だったかも知れない。
 ぴしゃぴしゃと水たまりでもお構いなしに、違和感の方に進んでいった。ちょうどその部分は完全に影になっていて、暗黒になれた目でも、簡単には識別できなかった。
 一メートルぐらいの距離で立ち止まり、様子をうかがった。何かがうずくまり、呼吸をしているような動きが見て取れる。
 人がいるのか? 彼と同じストリートチルドレンかも知れない。こんなところでうずくまっているのなら、病気で死にかかっているのか、という予感。なら、無視して通り過ぎようかとも思ったが、微かに聞こえた声が、少女のものだと分かったので、彼は近づいてみることにした。
 少女は、身体を丸め、子供のネコのようにうずくまっていた。少年は、目鼻の距離に顔を近づける。夜目にも、やはり女の子だということが分かった。高そうな雨合羽に身を包んでいる。
「おい、お前」
 少年は、少女の肩を揺さぶってみた。二人の視線が合う。少女があまりにも真っすぐに見つめてくるので、目を逸らすタイミングを失った。
「お、お兄ちゃん……」
 それは線香の火のように弱々しい声だったから、なんだかすぐに抱きしめたくなってしまった。まるで、ずっと待望していた、本当に大切な人に出会ったかのような心持ちがした。慌てて、小さく首を振り、自分の気持ちを否定する。他人に感情移入するとろくなことがない……、だいたいそんな気分になる根拠がまるでないではないか。
「火の蛇が追いかけてくる……、それがあたしとあなたの運命」
 少女は、確かにそういった。
 火の蛇などいるはずがない。そもそも、ほとんど意味のある言葉になっていない。この少女は、頭がおかしいのだろうか。ストリートチルドレンの中にも、突然意味不明なことを言い始め、それきり正気が戻ってこないヤツがいた。そいつらは、例外なく自分の面倒も見られなくなり、やがて死んでいった。
 少年は、少女の右手を握り、引っ張った。それだけでは彼女の身体は持ち上がらなかったので、両手で思い切り引っ張ると、ようやく立ち上がる。だが、そのまま前のめりになり、少年に倒れかかってきた。
 「お、おい。ふらふらするなよ!」
 少女には立つ気力もほとんどないようだった。そのの白い首筋から、なんだかいい匂いがした。明らかにストリートチルドレンではない、風呂と石けんのある環境で生活してきたヤツだと確信した。
 少年は、少女に肩を貸し、引きずるようにして、路地を歩き始めた。
「オレの名前はオリヴィ・カスム。お前はなんていうんだ」
「……」
 少女の目は、オリヴィと名乗った少年の方ではなく、ビルの隙間から見える細い空を向いていた。
「おい、聞いているのか。お前の名前は何だ」
「あたしの名前は、公衆便所……」
「え」
 オリヴィは性的な意味合いを思い浮かべてぎょっとした。
「……公衆便所の落書きに、あたしの名前は書かれている」
「何だ」
 気が変になったヤツの、変な言葉ってところか。この少女が性的なオモチャになっているところを、一瞬でも思い浮かべてしまった自分を恥じた。
「星々のささやきが、あたし達の当面の敵を倒してくれるわ」
 だめだ、完全に会話にならない。でも、なぜか突き放す気にはなれなかった。
「星々のささやきって何だよ」
「それは、ヒッグス粒子を振動させる、無限遠からでも伝わってくるささやき」
 ヒッグス粒子……、昔読んだパルプマガジンにでてきたような言葉だけれど、むろんオリヴィにその物理的な定義など分かるはずもなかった。
 しかし、少女が完全な痴呆ではないことは、感じ取れた。その単語はまともな生活をしている人間でも、普通使わない専門的な言葉だから。
 雑居ビルの迷路……、もうそこがどうなっているのか京師庁でさえ把握していない奥部に、オリヴィの住処はある。彼は、ペンキが剥げて錆び付いた鉄がむき出しになっている扉を押した。ギイイという音とともに、扉は内側に開いた。
 このビルの所有者はいない。流浪のストリートチルドレンやホームレスが、仮住まいとして利用し、しばらくするといなくなる。オリヴィは数ヶ月前から、ここの一部屋を利用しているが、その間に何人かが別の部屋を使い、出て行った。
 今、何人がいるのかも分からない。彼らはお互いに無関心だった。
 オリヴィ達は目の前の階段を上がり始めた。少女は、のたよたと足を動かし、気をつけていないと階段を踏み外すから、その度にオリヴィはあわてて支えるはめになったのだった。三階まで昇るのに、三十分近くかかった。そんなだから、左腕に吊るした弁当の中身はグチャグチャになっていた。
 三階の扉を開けると、長い廊下と壁伝いに無機質な扉がいくつか並んでいた。そのうち一つのドアノブを捻り、押し開く。
 オリヴィの部屋だ。彼が入り口のところにおいてあったLEDのランタンを灯すと、部屋の中がうっすらと浮かび上がった。彼は、それを持って部屋の中に入っていった。少女も、後をついていく。オリヴィは振り返ると、ドアノブと骨組みがむき出しになった柱とを針金で結びつけた。寝ている間に侵入者が来ないよう、用心のためである。
 打ちっ放しのコンクリートの上に、ダンボールやウレタンのシートが敷いてある。雨水が滴り落ちて、ダンボールに黒い跡をつけた。部屋の隅には、かつての使用者が残していった事務机が置いてある。その上には何冊かパルプマガジンが置かれている。折りたたみ式の丸いテーブルが壁面に立てかけてあり、薄汚い毛布が部屋の真ん中に丸まっていた。ほとんどが拾ったものだ。LEDランタンは重宝している。
 一人で使うには広さは十分だが、逆に広すぎて薄ら寒いのだった。
 オリヴィは、濡れて肌に張り付いている服を全て脱いで、針金のハンガーにかけ、やはり壁際に吊るされたタオルで身体を拭いた。そして、たたまれて床に並べてある、少しはましな服に着替える。
 その間中、少女の視線は中空をさまよっていた。オリヴィは彼女の合羽を脱がせると、ハンガーに吊るした。ぽたぽたと雨水が垂れる音。やはり、性能のいい合羽らしく、少女の身体はほとんど濡れていなかった。
「さあ、お前。寝るだろう?」
 オリヴィはペットボトルのキャップを外し、少女に渡した。少女はなん口か飲んだ後で、にっこりと笑った。オリヴィものどを潤した後、毛布を広げた。
 毛布は二つあって、いつもはオリヴィが重ねて使っている。
「さあ」
 少女が座ったまま動かないので、肩を両手で押して横にさせてあげる必要があった。両腕から伝わる感触は、なんだか柔らかくて瑞々しかった。
 少女に一枚毛布をかけた。
「オレは、メシくってから寝るよ」
 オリヴィは、具材がくちゃぐちゃに混ざった弁当を、胃に流し込むように食べた。なんだか、めちゃくちゃ濃い調味料の味に、軽く吐き気を催すほどだった。
 ランタンを消す前に見た少女の寝顔は、まるでギリシャ彫刻のように白く、理知的なものだった。
 暗くなると、すぐに眠りに落ちた。

 森の中だった。名前の分からない平らな葉っぱの木々が、辺り一面生えている。その枝々に、カラフルな樹脂でつくったランプが灯されていた。紫・黄色・青・緑……、それらは水面に漂う風船のようにゆっくりと動いている。
 空を見上げると……、見たこともない数の星々が輝いていた。まるで、青い魂が明滅しているように。
「なに、ぼうっとしているのよ」
 目の前に、腕組みした少女が立っていた。白いワイシャツに紺のブレザー、ミニスカートだ。胸がでかい。その谷間に顔を埋めたら、さぞかし気持ち良さそうな。
「どこ見てんのよ! オリヴィ!」
「オレの名前を知っている!? お前、誰だ!」
「誰だって、見れば分かるでしょ」
 オリヴィは、少女の顔をまじまじと見つめた。口さえ開かなければ美少女といった風だが。
「そ、そんなに見つめないでちょうだい」
 少女は、何故か恥ずかしそうに目をそらした。
「お前……、オレが住処に連れて帰ってきた女の子か?」
「そうよ。『お前』じゃなくってソフィア・カミナガって名前がある」
 少女は、胸を突き上げて威張った。
「お前、そんなに胸がでかかったか?」
 オリヴィは実に不思議そうに首をひねった。
「う、うるさい。あたしの胸の大きさなんて関係ないでしょ」
 少女は、目の前に漂ってきた光るランプを軽く小突いた。ランプは向きを変えて、オリヴィの方に向かってくる。
 オリヴィはそれを左手で受け止める。アラビア糊が固まったような、ふにゃふにゃとした感触がした。
「このランプは何なんだ?」
「さあね、大した意味はないわよ、多分」
「お前、ちゃんと日本語が喋れるじゃないか」
「あたしはね。でも、現実世界に生きるあの子は、意味ある言葉を喋ることはできない」
「なぜ?」
「あの子とあたしは、肉体を共有する別人格。いつから、あたしが存在するのかは分からないけれど」
「……、お前は言葉が」
「そう。ただし、あたしは夢の中にしか存在できない。あの子が精神感応している人の夢の中にしか、ね」
「他人の夢の中にしか存在できないだって? わけが分からない」
「あたしにも分からないわ。自分の夢じゃなくって、他人の夢にしか存在できないなんてね。でも、おかげであの子は生きてこられたともいえる。あたしが、夢の中で他者とコミュニケーションしてきたから、ある程度その人の支援を受けることができた……もっとも、今までに数人だけどね」
「変だ、変だよそれ」
「あの子はああだけれど、こうして精神感応しているってことは、あんたを選んだってこと。あんたは、あの子を助ける義務がある」
「ぎ、義務って、なんだか偉そうだな」
「お願い、あの子を、あの子を助けてあげて」
 彼女の態度は、必死だった。辺りの光を反射して輝く瞳は美しかった。オリヴィは、無言で、手に握った樹脂製のランプを、ソフィアの方に投げ返した。

 ドアを叩く音がして、目が覚めた。まだ太陽は、地面の下にある時間帯だ。どうせろくな客ではない。針金でつくった閂をしているから、簡単に開けることはできないだろうが。
 少女も起き上がったようだ。暗闇の中で、その表情はうかがえない。
「夜分遅くに失礼します。都市警察のものです。こちらのお年寄りから報告を受けまして、やって参りました」
 高い声だが男だろう。オリヴィは扉のところまで歩いていき、ドアスコープを覗いた。広角レンズには、二人の人物が像を結んでいる。
 一人は、都市警の制服を着た、眼鏡をかけた男。もう一人は……、この辺りをうろついているホームレスの老人だ。都市警男は、警察手帳を提示して、自分の身分を明かしているが、そんなものいくらでも捏造可能だ。
「何のようですか?」
「実は、我々が行方不明者として探している女の子が、ここにいらっしゃるとお聞きしまして」
「ああ……」
 ソフィアのことだろう。ストリートチルドレンではあり得ないと思っていたが、やはり捜索願が出ていたのだ。
 オリヴィは後ろを振り返った。
 ソフィアは……、都市警男の持っていた懐中電灯の明かりの残像で、一瞬彼女が何処にいるのか分からない。毛布の中にはいない……、部屋の奥に縮こまって、ガタガタと震えているではないか。
 オリヴィは、奴らがソフィアにとって害になる存在だと直感した。
 スボンのポケットの中に入ったナイフを意識する。
「そんな女の子はここにいません」
「いない? おかしいなぁ」
 都市警男は首を傾げる。
「中に入らせてもらえませんか」
「夜遅いんです、寝かせてください」
「困ったなぁ」
 男は帽子を外してポリポリと頭をかいた。
「どうしても開けない気かい!」
 突然、ホームレスの老人が、若い女の声を出した。腰の曲がった老人の姿形が、みるみる変わっていく。
 オリヴィは、本能的に危険を感じ、身体を床面に倒し、転がった。
 その瞬間、ドアの真ん中を真横に裂くように、金色の光が走った。さらに、縦にもう一度。
 鉄でできているはずのドアは、いとも簡単に四分割され、音を立ててコンクリの上に落ちた。オリヴィは、ソフィアに向かって走った。
「あの連中は、何だ!? お前、知ってるのか」
 オリヴィは、少女を背中に隠して、連中と対峙した。
 老人だったはずのそいつは、今や派手な顔をした金髪の女に変わっていた。着ている服だけが小汚いホームレスのものだが、実はそれも人工的に汚れを付けているだけなのが、オリヴィの目には明らかだった。
「ボクちゃん、そこをおどき。さもないと、あの扉みたいに、バラバラにするよ」
 女の左手には、金色に輝く鞭が垂れ下がっていた。それは、不気味なコウガイビルのようにプルプルと蠢いている。
 オリヴィを握るソフィアの手が、汗で濡れていた。それだけで、女達がソフィアに何をしようとしているのかよく分かる。
 こんな連中に、ソフィアを渡すわけにはいかない。
「嫌だ! このキモケバ女!」
「お馬鹿さんね、このわたしにそんな口をきいて、生存を許されると思って?」
 隣に立っている都市警男が慎重に言葉を選んで言った。
「アルコーン様……、くれぐれも少女を傷つけませんよう……」
「うるさいわね! わたしの鞭が狙いを外すとでも?」
「は……差し出がましいことを申し上げました」
 アルコーンと呼ばれた女は、光る鞭を振り上げた。
 それは、オリヴィをまっぷたつに切り裂くはずだった。
 だが、鞭にそれを命ずる間際、アルコーンは背後に強い気配を感じた。直感で、能力者だと気がついたアルコーンは、体勢を崩し、床を転がった。
 アルコーンのいた場所に、無数の光る弾丸が撃ち込まれ、コンクリの破片が飛び散った。散弾銃並みの威力……、よけていなかったらアルコーンの身体は穴だらけだっただろう。
 だが、アルコーンは驚きで動きを止めるほど、素人ではなかった。すぐに床を蹴り、反転する。
 彼女の視野に飛び込んできたのは、スカーフで顔を覆った男女二人組だった。男は、くせ毛の長髪で、真っ黒いコートを身にまとっている。眼鏡の淑女は、豊満な身体のラインにぴったりとくっついたニットのセーターに、灰色のスラックスといった格好だ。
「何だい、あんたらは」
アルコーンが凄む。
「名乗るほどのものではないわ。あなたたちこそ、何者よ。無辜の民を何の権利があって傷つけようとしているの」
「これは仕事でね」
「ロイヤルプロヴォストの能力者よね、あなたたち」
「……そこまで知っているのかい。なら、民間人は引っ込んでいるのが筋だろう。その少女を回収するのは公務だ」
 淑女は、不敵に笑った。
「人殺しをするのが公務だと? そんな公務には、抵抗する権利がある」
「権利っていうのは、力あるもののみが主張していいものだよ!」
 アルコーンは、鞭を振るい上げた。それは、通常あり得ない変則的な動きで、淑女の首に向かって飛んでいった。
 だが、何か透明な壁に当たったかのように、光の軌道は阻まれた。固いものにあたったときの衝撃が、アルコーンの左手に伝わってくる。
 もちろんアルコーンは、そんなことでひるんだりはしなかった。間髪入れずに、鞭はしなり、今度は反対側から淑女に襲いかかる。左から、右から、上から……、しかし、その全てが跳ね返された。
「まさか、結界?」
 黒いコートの男の眉が、ぴくりと動いた。
 結界を作り出す能力者がいるということは聞いていたが、出会ったのははじめてだった。
 眼鏡の女は、右人差し指を女の方に向けた。流れるような滑らかな動作だ。
「何をする気だ」
 アルコーンは鞭を床に垂らし、油断なく身構えた。アルコーンの武器は、その性質上防御にも使うことができた。だが、二人が相手では分が悪いことを認識している。
 あの結界が、魔法命題で構成された武器を通さない性質があるのなら、女が攻撃を始める時結界は解かれるはずだ。その隙をついて攻撃すれば、まだ勝機はある。

 都市警男の姿が見えないことに、誰も気がついていなかった。彼の姿は、奇妙なものに変化していた。手足は蜘蛛のように長く伸び、それを使って壁を這い上り、天上に張り付き、ゆっくりゆっくりと獲物の方へと進んでいた。
 オリヴィは呆然と対峙する女たちを眺めていた。
「これが、噂になっていた”能力者”か」
 心の中でそうつぶやく。今や、能力者が存在することは、国家も認める周知の事実となっていた。だが、オリヴィが出会ったのは初めてだった。
 自分の背中で怯えているソフィアのことも忘れて、目の前の戦闘に熱中しつつあった。

 眼鏡の女の周囲に、星空のように無数に光る光球が現れた。先ほどアルコーンを射抜こうとした弾丸は、これだ。
 何の前触れもなく、光球は、音速を超えて滝のように放たれた。
 だが、アルコーンは、その軌道と範囲を正確に予想していた。最小限の跳躍で、光球のほとんどを避け、眼鏡の女の右側に回り込んでいた。いくつかの光球が、決して小さくはない傷を負わせたが、彼女の動きは鈍らない。
 着地と同時に、鞭を振り上げる。今度こそ、眼鏡女の首は、胴体と切り離されるはずだった。
 だが、固いものにぶつかる衝撃。鞭は、またしても遮断された。
「なぜ……」
 味方の攻撃は通し、敵の攻撃は通さない……、理屈は単純だがそんな器用な結界命題を構築できるものは、ほとんどいない。しかも、魔法陣を使わず即席で、だ。
 男の表情は、全く変わらない。この程度の芸当、できて当たり前だといわんばかりだ。

 蜘蛛男は、ソフィア達の真上に来ていた。天上に張り巡らされたパイプに足を引っかけ、コウモリのようにぶら下がる。自由になった長い両手で、虹色に輝く細い糸を放出、それを器用に八角形に編み上げる。
 オリヴィはようやくその気配に気がつき、顔を上げた。
 蜘蛛男が、投網をソフィアに向かって投げた。

 アルコーンの動きが止まる。それは、ほんの刹那のことであったが、眼鏡の女にとっては十分な時間だった。アルコーンが蜂の巣になるのは、誰もが予想していたことだった。しかし、意外な原因がそれを食い止めた。
 突然、ソフィアが、アルコーンと眼鏡の女の間に転がってきたのだ。
 まるで操り人形のようにゆらゆら揺れながら、彼女らの前に立ちはだかった。天上から、糸が伸びている……、その先にいるのは、蜘蛛男だった。ヤツが、糸を使ってソフィアを放り投げ、操り人形のように立ち上がらせているのだ。
 ソフィアの顔は恐怖で歪んでいたが、自分自身で傀儡から逃れることはできないようだった。
「ふふふ……、攻撃すればこの子にあたるよ」
「くっ!」
 ソフィアが死んで困るのはアルコーン側も同じだった。だが、そんなことはおくびにも出さない。
「わたしたちは、この子が死んでも別に、なんてことはないのさ」
 アルコーン達は、ゆっくりと入り口へ向かって移動し始めた。極めて不愉快な表情をしている眼鏡の女。今まで冷静だった黒コートの男にも動揺が走る。
「さあ、そこをおどき。この鞭で、子のこの首を切り落とすことだってできるんだよ」
 蜘蛛男、ソフィア、アルコーンはまるで連動しているかのように出口に向かう。さすがに隙がない。
「おかしな結界を張って妨害しようものなら……どうなるか分かっているね」
 ソフィアが、頭を少しだけ後ろに向け、オリヴィに向かって、
「助けて」
 と言った。
 オリヴィは逡巡しなかった。叫び声を上げて、アルコーンに向けて突っ込んでいき、彼女の太ももに噛み付いた。
「いっ」
 アルコーンは、いとも簡単にオリヴィを蹴り飛ばした。
「ガキが! 邪魔しやがって」
 アルコーンは光る鞭を無造作に振るった。光が、オリヴィに向かって飛んでいく。
 オリヴィは、死を覚悟した。
 その時、あの夢の中の少女が、ささやいた気がした。
『あなたには、最強の力がある。あたしが解放してあげる』
 力が、体の中心から湧き上がる。
 オリヴィの右手に、光の束が握られていた。それは剣のようでもあり、太陽から放たれるというプラズマの嵐がそこに生じているかのようでもあった。
 オリヴィは、本能に従ってそれを構えた。
 鞭は、その光輝の剣に向かって吸い込まれるように飛んでいった。
 二つの光がぶつかる。
 何の衝撃も、音もなかった。
 光る鞭は、その存在を消していた。
「な、何だって!?」
 アルコーンは驚愕の表情を浮かべた。
 オリヴィは、光輝の剣を真っすぐに構えたままアルコーンに突っ込んでいく。はじめて戦ったとは思えないほど、鋭い攻撃だった。
 アルコーンはすんでのところでそれをかわす。少年は、アルコーンのことは相手にせず、ソフィアを捕らえている糸にその切っ先を向ける。
 剣が触れた瞬間、糸は跡形もなく消えた。
 そこにいる全ての人々が、あっけにとられた。
 オリヴィと、能力者達の立場は逆転していた。まるで、この場の支配者は、オリヴィであるかのようだった。
 アルコーンにも蜘蛛男にも、何が起こったか認識できなかった。
 しかし、危機的状況であることは明らかだった。
 彼女は、とっさに左手に力を込める。先ほどのものより弱体だが、光る鞭が蘇った。道路に面した壁に向かって、それを振るう。
 壁は瓦解し、蜘蛛男とともにそこから飛び降りた。
 眼鏡女と黒コートの男が壁際まで駆け寄ったが、連中は既に別のビルへ飛び移っていた。
「深追いしない方がいい。こちらには、十分な成果が手に入ったのだから」
 黒コートの男は、あくまで冷静に言った。
 オリヴィは、コンクリの床に膝をついた。激しい疲労で意識を失いそうだった。
 ソフィアは、涙を流しながら、静かにオリヴィに近づいていって、彼の前で尻餅をついた。
「ありがとう、今この時は、イデアによって世界史の一ページに刻まれるでしょう」
 息も絶え絶えで、相変わらず何を言っているのか分からないが、感謝の気持ちを表現しようとしているのかも知れなかった。とんでもなく不器用なヤツなのか……、オリヴィは少しだけ笑った。
「あなた達」
 眼鏡の女は、スカーフを外した。
 閃光と戦闘の音が消え、今突然暗闇と静寂が訪れたから、耳鳴りと残像で、この場にいる誰もの頭がちらちらしていた。
「わたしたちと、来てもらうわよ。ロイヤルプロヴォストを敵に回してしまったのだから、それ以外に選択肢はないの」
 その声が、酷く遠くから聞こえているような気がして、オリヴィはため息をついた。

(第4回漫画脚本大賞落選作です)

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