洗礼を受けようと思った日のこと
「ノンクリスチャンが教会に行ってみた日のこと」
というシリーズのブログは、書いてから一年で、もう累計7万人近くの人に読まれた、わたしの中でも代表的な記事になった。(ごめんなさい、この記事は今もう見れなくて…必ずいつの日か復活させます)
あの記事のおかげで、沢山の人に知り合うことができたし、ministryやキリスト新聞など、沢山の方々の目に触れる場所で活動させてもらうことができたこと、ほんとうに感謝している。
そして、そこで一番多かった質問が、これだ。
〝いちさんは、
洗礼を受けられないんですか?〟
そう聞かれるたびに「いえ、まだ……」と答えていたのは、やはり心のどこかで、わたしにはまだその覚悟がないと思っていたからかもしれない。
沢山の人に取材をした。
沢山の人の声を聞いた。
「クリスチャン」と名乗る人たちの並々ならぬ想いを聞くようになったからこそ、私の信仰は、果たしてこの人たちと同等なほど、価値と責任のあるものなのだろうかと、自分に問いかけることが増えたように思う。
立派なクリスチャンという肩書きの中に、私は答えを見出せなかった。
今の私が洗礼を受けたとしても、きっと今まで取材をしてきた多くの人たちのように、神様を愛せる勇気はないし、自分の人生を全て捧げるっていえるほど、私は神様に対して何もできていない…そう考えていた。
そう、あの日までは。
今の自分を一度殺したい、と思った。
こんな書き方をすると、少し横暴だろうか。それでも、素直な感想はこれだった。その日、私は何時ものように朝起きて、それでもなぜだか身体がだるく、無関心なままベットでぼーっとする時間を過ごしていた。
自分以外の知り合いのいない島に、夏休みの間だけ働こうとぽつんと来た。シェアハウスで過ごした仲間たち、一緒に過ごした大切な人、家族や鳥取の友人の顔が浮かんで、無性に「誰かと話したいな」と思った。
今の自分を変えたい、変えるきっかけがほしい、そう思って、ひとり、誰も知らない島に来たのに、実際の私は何も変わらないままだった。離れては、人との温もりを求め、繋がろうとするくせに、自分に足りないものから目をそらしては、新しいことばかりに目を向けて、それが満たされないものだと、すぐに不満をもらしては、また別の世界に旅立とうとする。
今あるもので満たされない
自分に目を向けて歩けない
そんな自分が、嫌いだった。
電話をしてくれる優しい友人との会話が、少しだけ、荒んだ心を平常運転まで満たしてくれたけど、きっとこれも、一時的なもので、また時間が経てば、私はよくわからない不安の渦の中で、私は私をダメにしてしまう。
その時、私は心の中で、初めて本気で、こう願った。
神様、助けてください、と。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。
探しなさい。そうすれば、見つかる。
門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、
門をたたく者には開かれる。」
マタイによる福音書7章7節~8節
いつの日だったか、教会で聞いたこの聖書箇所が頭に浮かんだ。求めるものに、信仰は与えられる、だからこそ、神様に向かって祈りなさい。求めつづけなさい、という箇所だ。私は約一年間、教会には通い続けていたけれど、神様を求めるというところに対しては、なんとも消極的だった。いつも、いつの日も、本当は求めたいと願っていたのに、お祈りや信仰では、何も変わらないと思っていた。だからこそ、クリスチャンになるという勇気が持てなかった。
けれど、その時、その日、その瞬間、心の中でなんども祈った。
神様、助けてください。今の私を、一度殺してください、と。
今の自分が一度死んで、また救われる時、その時に必要なのが洗礼であり、神様である気がした。今まで何度学習しても、理解し難かったその問題に、その瞬間はパッと、答えが見えた気がした。
「洗礼を受けたいです。」と、牧師先生にメールを送った時の、なんともいえぬ胸の高ぶりと、気持ちの衝動は、今でも忘れることがない。
これが一瞬の高ぶりなのか、気の迷いなのか、はたまた、本当に自分の中で決心がついていたのかは、この時は定かではなかった。
けれど、私はこの日の信仰によって、その後、これを書く今日までの日々、毎日誰かに祈られている気がしているし、神様に守られていると感じることができるのだから、洗礼を考える瞬間や、信仰に向き合う瞬間は、本当に一瞬のものであっても、見逃してはいけないなと、本当に今、思っている。
神様のなさることは、すべて時にかなって美しい。
前回のコラムでも引用したこの箇所が、今も胸に残る。一年間、教会に通い続けた。そばにいてくれたクリスチャンの友人だけでなく、教会の人々にも祈られ、助けられ、たくさんの人に出会う中で、私は導かれたのだと思う。一年前、私はノンクリスチャンだった。そして、神様の意味も、イエス様の存在も、罪の意識も、本当に皆無だった。
そんな私が、クリスチャンになる。
それは、私自身にとっても、大きな決断であり、そして、新しい人生の始まりの気がしているのだ。
喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。
周りからどう思われるか、なんて、今の私には、そんなに大きな問題ではないように感じている。だって私が「神様を信じたい」と思ったその気持ちは、他の誰のものでもなく、私と神様との出会いの中で生まれたものだから。
この気持ちを、どこまでも深く持っていたい。そして、神様を信じたいと思ったあの日のことを、どうか忘れずにいたい、と思う。
あなたがくれたこのサポートで、今日もわたしはこのなんの意味もないかもしれないような文章を、のんびり、きままに書けるのだと思います。ありがとう。