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黄昏に音割れした『新世界より』が響く。17時だ。何処から鳴っているのだろう、と見上げた目が西日をかすめて思わずくしゃみが一ツ出る。 もう夕方は半袖だと肌寒い。あれほど囂しかったヒグラシも鳴りを潜めた。そろそろ夕涼みもおしまい、明日から散歩は午前中に戻そうかとてくてく行きつつ考える。 けだし「夕涼み」は夏の季語である。暑かった一日の終わりに涼風を迎える慣わしのことだ。蚊取り線香と風鈴のある縁側や軒先が思い浮かぶ一方、「夕涼みに出る」で散歩を表すこともある。 似たこ
毎年ほぼ欠かさず罹患する病といったら、インフルエンツァでも武漢病原体でもない。大型連休が終わり、今後しばらく祝日なしと絶望する朝ぼらけに突然やってくる、そう「五月病」である。 身も心も泥のように重たくて、どこにも行きたくないし何もしたくない。ひどいときは抑鬱症状にまで発展してしまう、あれだ。 ストレスから自律神経の働きが鈍る、日照時間が減ることでセロトニンが分泌されづらくなる、という二点が病理という。これは年を取ったらひしひし身に沁みるようになった「季節の変わり目」
上京したてのころ、最寄りの駅前にある某アメリカ産チェーンのバーガー店によく通っていた。地理か英語かの教科書でしか見たことなかったハンバーガーが100円(当時)で、これが大東京かとお上りさんの目には輝いて見え、それで腹を満たして講義に出るのがスタイリッシュだとオシャンティだと思っていた。バカである。 ある深夜、なんの帰りか、立ち寄った。客も店員もまばらな中、注文してボーッと待っていると、奥から出来上がったバーガーひとつが二三歩の幅の調理台を滑ってきた。 「ファスト」の
当代たくさんの挿絵画家が活躍されているが、「酒井駒子」の名前は特別だ。めくるたび消えてしまいそうな儚い線と色づかいで、あれもこれも擦り切れるほど読んできた。 というのは歳をとったからこその感慨だろう。子供のころはただ、動物の、少女の、静物のおりなす空想を、冒険を、物語を、豆球に照らされた暗がりの中で自ずから描いていた。 ……というのも美化に違いない。 昔の感覚を今ことばにするなんて、どれほど無粋な試みだろう。一言半句でさえ、あのころ去来していた一片にも満たない。