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『五枚めくり』

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実学全盛時代に文学部を博士課程まで進んでしもうた三十路どん詰まりワンルーム独居男のエッセイ集。四季折々の散歩漫遊また退屈鬱屈の常住坐臥に思い描く意想夢想を綴る、各5枚=2000字…
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#読書

言海ヲ游グ

 年末年始も課題添削やら試験作成やら齷齪しておりました。ひまを盗んで本を読んだり散歩したり、叶えたためしのない一年の計を懲りず念じてみたり、要するに平年並みです。  この「齷齪」って、字面だけでもジタバタしている感がありますね。似たものに「齟齬」がありますが、これとて通じ合っていない様子が目に浮かびます。四字とも偏は「齒」、近代文学で「よわい」とルビが振ってあったり「年齒」と使われていたりする、「歯」の旧字体です。歯が年輪を表すって、いかにも口腔ケア後進国たる日本らしいです

 晩秋の夕焼けには絶命間近の感がある。早くもおやつ時から傾き始めている日が午後4時を回ったあたりで強烈に濃い朱色を放ったと思えばたちまち暗転、この時季の日没が「釣瓶落とし」と呼ばれるのも肯えるほどあっさり暮れる。  釣瓶とは井戸に滑車で釣られている汲み桶のことだ。上下水道が完備された今では知る人ぞ知るという代物だろう。たしかにはるか地下で地上の光を映す水面へとそれを落としたとき予測よりよほど早くボチャッといっていた、ような気がする。それが喩えられたわけである。  国語か日

魔に逢えば夏の夜は夢

 日差しやわらぎ暦は処暑、あれほど勢力あった蝉時雨もだんだん疎らになってきて、夜は鈴虫がリイリイ鳴きだしている。首都西方は曇りがちだが暑いものは暑いので、このごろ散歩に出るのはもっぱら黄昏、逢魔時である。  いかにも「魔的」な時間帯だ。じりじり紺青に襲われる夕焼け空は残喘を尽かしつつあるみたいで、うそ寒い空気が混じりだしてなんだか肌寒くもある。駅の方からふらふらやってくる影法師ひとつひとつにも「誰そ彼」と、人か鬼か妖かつい確かめてみたくなる。 「じゃあなァ!」 「またあし

Sとの契約

 やや早めの仕事帰りは午後4時過ぎ、毎年のように聞いている気がするラニーニャのせいか梅雨明け早々の真夏日である。こんなことなら日没まで図書館で時間をつぶしてくればよかったと、暑気に澱んだ駅前を抜けたあたりから悔やんでいた。  ほんの数分が果てしなく遠い。路地には陽炎が踊り、まるで地獄の一丁目だ。住宅街につき日よけもない。こんなときこそ日傘があれば楽なのに、誰に笑われようが指さされようが今さら構うまいと前年も前々年も痛感していたのに、喉元過ぎればの要領で忘れていた、そのことも

雨あめ降れふれ母さんが

 不快ばかり謳われる六月末に誕生日がある。  梅雨は好きじゃない、が手放しに嫌いとも言えない。曇ぐもりに晴れ間が覗けば洗濯事情だけじゃなく喜ばしいし、虹まで架かれば命あることの感激ひとしおだ。なにより重たげな灰白一色の空にも雨だれの透明にも映える、におわしき藤色や葵色の大輪に出会える。  この花、英語では学名そのままハイドランジアという。古代ギリシャ語が語源で直訳すれば「水の器」、他方われらが「紫陽花」は当て字かつ誤記が由来らしいが、どちらにせよ字からも甲乙つけがたいほど

花曇りセンチメンタリズム

 語源「晴る→春」など知らぬと言わんばかり、朝から白々しいまでの曇り空である。拙宅を出たときから足もとには花びらが延々と落ちている。青天を衝かんと伸びて匂わしき桜花この世の春を謳えど、かくもあえなき三日天下よ。桜は散りきった。  春は桜、夏は蝉、秋は紅葉、冬は雪と、四季には「刹那」が欠かせない。しからずば、その中にある人事一切の塵労もまた邯鄲一炊、夢のまた夢、いずれ消えゆくものなるや。路傍に茶ばんで干からびる数多の残滓がいっせいに「無常」ということを物語っている──  死

四月の底ゆくフラヌール

 物心ついたころから冬好きなのは確かなのに、持病の腰痛のせいで年々冷えと寒さが億劫になってきている。今年もお彼岸ごろまで散歩すらままならないほど不如意が続いて、仕事を除けば食糧調達くらいでしかロクに外出していなかった。  年度改まり心機一転、まだ日によっては固い腰を引きずってリハブにと歩きだした。マンションの階段を下りているだけで左側が尻までジンジンするので、「あんよは上手」の要領で右足左足ゆっくりのっそり、さながら冬眠明けのクマだ。  前に読んだ江戸期の典籍に、雪山で遭