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文武両道

 いわゆる”自称進学校”だったもので、部活は強制だった。運動したくないので文科系になることは必然だったが、吹奏楽部ほど打ち込む気も家庭科部ほどキラキラしたところに行く気にもなれず、というか何にもやりたくないのでどこにも入る気になれず、一番活動の気配がない科学部に入った。
というのをふと夢に見て当時ぐにゃぐにゃ考えていたことを思い出した。


 しょぼい進学校ほど文武両道を掲げるのはなぜだろうか。どう考えたって片方にエネルギーを集中させたほうが成果は出るでしょと常々思っていた。分配法則もエネルギー保存の法則も教えるくせに、高校生が持つパワーは2で割っても変わらないらしい。あまりにも青春というバフを過大評価しすぎでしょと。とはいいつつ、本当に両方やっちゃう人間がいるのが恐ろしいところである。彼ら・彼女らは100点の答案用紙を小脇に抱え生徒会で先生・友人と談笑し、さわやかな汗を流しながら何かの大会で優勝し、恋人ととちゅっちゅちゅっちゅしながら難関大学へ入学していくのだ。どう考えても計算が合わない。


 この不可解な現象を目の当たりにし、私は自分なりに答えを模索した。思うにすっごい高いところで生を受けたのではないか。富士山とかマチュピチュとか標高の高いところで生を受けてから地表に降りてくることで、その位置エネルギー分スタートダッシュをきめてるのではないか。地上を1~2mとすると富士山は3000mくらいなので体感的にはつじつまが合う。だとしたらずるい話である。思春期とはいえ、両親が低い位置で愛を育んだことを責めるわけにはいかない。当時はふとんだったのかなとかおもいつつ、もしくは私のほうが地底深くから這いでてきた説もあるなと思った。セミみたいに出てくるところで力を使い果たし、今ウイニングランの消化試合状態なのかもしれない。毎日ほどよく疲れてる感覚はあるのでこれも体感的には捨てがたい。諸説あるのかもしれない。

マチュピチュのフリー画像 
行きたい 


 ちなみに科学部はわりかし居心地がよかった。だべってばっかりだったので実験をしろと言われ、資料集の最初のほうに載ってた豆腐作りを始めた。高校生の集中力は恐ろしいもので、ビーカーで大豆を水に戻す段階で飽きてしまい放置して帰ったが、数日後科学室に行くとそこには小さなビーカーの中からぐんぐんと芽を伸ばす大豆の姿があった。広く無機質でがらんとした科学室の中心で、一人めきめきと生を発揮している姿は極上のアートを見たような感動があった。そのあと腰ぐらいまで成長しているのがやけにツボに入りげらげら笑っていると、学校一やさしいといわれていた先生から見たことのない形相で怒られた。そりゃそうだと思った。


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