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『求道のマルメーレ』#5 第二編 背中に棲む獣(三)

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第二編 背中に棲む獣(三)

 地面に空いた丸い窪みを通り過ぎた辺りから、土の肌が見えていた小道が苔に覆われていく。次第にカラマツがまばらになって、トウヒやモミの木が優勢になる。そうすると森は閉じていくのだ。だんだん薄暗くなっていく。
 西の森は深く、動物もあまり好んで出入りしない。したがって環境の変化に弱い。だから例えば、合わせて百三十キロくらいであろう二人分の重さをこの小さな二本足に分散させた時、地面に生えている苔をむしること。あるいは、大きな『手毬』で動き回って苗木を折ること。そういうちょっとした配慮の無さは、この森にとって侵略行為になりうる。
 亜寒帯と寒帯の生態系を網羅するこの水神の管理領域ではもちろん、それは日常的にもいえることだ。王女として守るべき良識ではあるが、鋼にとっては単にそれだけというより、むしろ後悔ゆえの所業だった。
 間隔の狭くなっていく木々をよけ、奥へ奥へと進んでいく。相変わらずほとんど動かない黒刃の蛇体を時折撫でてやりながら、鋼は木漏れ日さながらの月光から目をそらした。そうでないと、獣のように膨らんだ影こそが己の真の姿であると露見するような気がしてならなかった。気付けば黒刃よりも動悸が乱れている。
 実のところ鋼には、月光を前に動揺する原因がよく分かっていた。過去に犯した重罪への罪悪感と、それを咎めてさえもらえなかった孤独感のせいだ。だが、分かっていたからといってどうしようもないのだ。怒りも嘆きも慰めもせず、「制御に励め」とだけ残して立ち去った背中を未だに直視できないのは、仕方のないことだった。
 不意に首をくすぐられる感覚に驚いて、鋼は我に返り振り向いた。そしてその正体が黒刃の舌だったことに気が付いた。頭をもたげた黄色い目が、碧眼を見つめている。
 それはまるで、沈んでいく思考を体のある所まで導く浮子のようであり、また先走る体を思考のもとに留める錨のようでもあった。少しずつ、鋼の表情が緩んでいく。
「……ありがとうね。」
 鋼は、その一言だけを音に乗せて黒刃の首元を撫でた。居心地悪く脈動していた心臓が、次第に温まってくる。
 仕方のないことを考えたって仕方がない。鋼はそう思い直して視線を持ち上げた。
 人は互いを理解し合うことなどできない。それは親という、切りえない縁の相手だろうと同じことなのだ。数十年来疎遠の神親はもちろんのこと、血の繋がりまであった人親でさえも、私は理解できなかった。努力はしたつもりだ。だが一体どうやって、偽りの愛を掲げて私を支配しようとした人間を理解することなどできたであろうか。
 そうである以上、やはり他者に自分の幸福への一助を期待するなんて馬鹿げているのだ。地獄の窯の中身よりも醜い世の中に生み落とされて、それでも幸福に生きたいのなら、私は自力で幸せになるしかない。
 だから、この先を拓いて進むと決めた。自ら考え、自らの責任で行動するという、可能な限り自立した選択の積み重ねの末に、何者にも揺るがせない納得の境地はきっとある。それこそがきっと、本当の楽園であるはずだ。そしてその楽園にこそ、本物の愛があるはずなのだ。
 不意に、鋼の奥歯がギリと固い音を上げた。それは、いつまでも獣や膜なんかに気を取られて、こんなところで足踏みをしている己を罰するような音だった。
 一際背の高いモミの木をよけると、視界が一気に開ける。薄く靄がかっているが、それでも向こう岸が見えるくらいの湖が森に穴を空けていた。手前の岸には一つの大岩が居座り、対岸からは川が伸びてやがて滝になっている。
 鋼は『手毬』を辺りに散らして、穏やかな波の淵に佇んだ。靴を脱ぎ捨て、黒刃の服を大岩の上に放り投げる。
「水の中、入るからね。」
 そう言うと鋼は黒刃の背中を撫でながら、体に触れる部分だけ温度を上げた水の中へざぶざぶと進んでいった。底が落ち窪んだところをさけて、腹の辺りまで浸かる。と、傷が水に触れるのを反射的に怖がった黒刃が、ぐっと鋼の腕を締め付けた。
「痛くないから、入ってごらん。」
 上腕と肩に絡みついている体をいたわりながら、膝を折ってゆっくり体を沈める。
「海月。」
 黒刃の体が水に浸かる寸前で鋼が唱えると、空気の球が黒刃の体に引っ付いたかのように水が傷をよけた。鋼の頭も黒刃の頭も、水に触れることなく湖に沈む。黒刃はチロチロと細かく舌を出し入れした。
「ふふ、ちょっと触ったら古い皮取れそうだね。撫でてもいい?」
 鋼が黒刃の鼻先を触ると、返事の代わりに黒い頭が手にすり寄る。鋼は少しずつ蛇皮を撫で始めた。
 水で濡れた手で鼻先から額へ、顎からのどへ、浮いた薄い皮を剥がしていく。時折舌を出す以外はじっとして動かない黒刃を抱えたまま、少しずつ少しずつ。傷の周りはより慎重に撫でる。そのたび、細身で筋肉質な体が現れては伸びた。濡羽色のしっとりとした真新しい肌がうねり、青みがかった光沢が体を這っていく。
 尾の先まで丁寧に、一片も残さないように剥ぎ終わると、水を蹴って湖面に顔を出す。鋼はわずかに濡れた髪を犬がやるように振り捌いた。
「いい子。お疲れ様でした。」
 黒刃の鼻先に口を寄せる。黒刃は少しもぞもぞしてから、肩の上の定位置に落ち着いた。岸まで滑るように泳ぎ、湖から上がると、体と服を濡らしている水を一滴残らず滑り落として靴を履く。そして鋼は、大岩の陰を見据えた。
 数秒待てば、岩陰からドレスの裾を引きずって空色の長髪が現れる。金色のペンダントが揺れ、藤色の瞳が鋼を見つけた。
 大岩に手をついた女王は、鋼と黒刃を順番に眺めてから、ふいと霊道のある方に目をやった。それから伏せた一瞥が湖を経由し、環状線のように再び鋼に戻る。
「先のはお前だな。」
「えぇ、そうです。」
 即座に返した鋼も、今度ばかりは微笑みもしなかった。いつものように無表情な瞳が、ただ距離を詰めてくるのを待っていた。鋼の肩に乗った黒刃が頭を下げようとするのを、女王が片手を上げて制止する。彼女はそのまま長い腕を鋼の方に差し出し、つまんだガラスの小瓶を揺らした。鋼が手を伸ばす。蒼白い肌と滑らかな肌が、触れることなく近付いていく。
「聖水の使用を許可する。必要であれば使いなさい。」
 手のひらに落とされた小瓶には、淡く光る水が入っていた。鋼は一言礼を述べ、ベルトについた薬入れにそれをしまった。
 視線を戻したシアンブルーが束の間、藤色と混ざり合う。どちらからともなく目をそらすと、ほんの少しの気まずい沈黙が二人の間に垂れ下がった。手持無沙汰にゆっくりと手を伸ばした女王が、艶めく黒い体に触れる。黒刃はたじろぎもせず、されるがままにしなだれた。
 その一瞬の間、鋼には、女王が目を細めたように見えた。
 だが目を疑った時にはもう、いつもの冷たい瞳に戻っている。手を引っ込めた女王は大岩の上にあった黒刃の服を引き寄せると鋼に渡した。そして黙ったまま、裾を振り捌いて踵を返そうとした。
「——母様」
 半ば反射的に口を突いて出た鋼の声に、女王が足を止める。鋼の口元は、言い淀みそうになった何かを無理やり飲み込んだ。
「……入り口の大岩は私がやりました。ですがおそらく、別の入り口か、あるいは綻びができてしまっている。少なくとも今日、レギオン、もとい堕使徒は、そこから霊道に侵入しているはずです。」
「そうか。確かめておこう。」
 見返った藤色の瞳に、鋼の姿が小さく映り込む。
「……明日、まともな弁明が聞けることを期待している。」
「はい……女王陛下。」
 鋼の返事を聞き届けて足を進めた女王は、岩陰に隠れ、そのまま湖の中へと姿を消した。鋼の瞳が俯く。
 いつも通りの女王、なのだろうか。ささやかな眠気が、どうしてこうも妄想じみた幻覚を見せようか。答えは出ているようで、唖然としてしまった鋼にはまるで遠かった。さざ波が靴底を押す。
 鋼は再び『手毬』を作ってその中に乗り込んだ。固かった表情がようやく緩み出して、それでも鋼はなんだか下手な笑顔を浮かべた。黒刃が鼻先を寄せる。鋼は思い出したように黒刃の背中を撫でて、森を後にした。
 フクロウはただ、木々の間をすり抜けていく水の塊を見つめ続けていた。

 暗闇の中、細い指がマッチを擦る。橙色っぽくも白い火がフッと立ち上がり、ゆらゆらと辺りを照らす。濡れたランタンの横にあった蝋燭に火が灯ると、用の済んだマッチは金皿に捨てられた。灯りが壁を伝い広がる。
 鋼はベッドの端に座っていた。クイーンサイズの真ん中では、額に氷嚢を置いた黒刃が眠っている。
 家に帰るなり暖炉に火を入れた鋼は、まず黒刃を人型に戻らせ、聖水を飲ませた後で傷口を消毒した。ゼリーに西洋白柳の樹皮の粉末を混ぜ込んだものを食べさせて、毛布を出して寝かしつけると、傷ついた左手を水で拳上し、輸血も済ませて、ついさっき神技封じもかけ直したし、日記も付けた。他にやり忘れていることがないかと忙しなく部屋の中を見回して、つい一瞬前にも同じ動作をしたことを思い出し、ため息をつく。天窓からこっちを見ている月に気付いた鋼は、瞬間的に目をそらし、仕方なくまばたきをし始めた。
 明日までに筋の通った言い訳を考えなくてはならない。鋼にはそれが救いだった。年甲斐もない熱量で憤るのを抑えていられる。右手首の冷えるような痛みもあいまって、再び狂気的な衝動と共に膨れていこうとする獣の影から意識をそらしていられる。
 人としての死を迎えてから、いかほどの年月が経ったのだろうか。鋼はふと、姿見に映る己を見ながら思う。不老と勘違いしそうになるほど成長の遅い神としての体は、人間でいう十代末ごろの様相を呈していた。成年まで、あと十年ほどだろう。成年すると間もなく女王位の引継ぎが行われ、現女王は自らエレメントの中に還ることになる。
 十年。長いようで短い時間だ。だが、きっと自分にはその経過さえもよく分からないのだろうなと、鋼は思った。それに、たとえその十年を有用に過ごせたとしても、影のように付きまとう凶悪な獣や、気を抜くと漂い出す現実と意識の間の膜からは逃れられないのだろう。そんなもの、まともな神には程遠いように感じられて、いたたまれなくなる。
 完全に脱線した。ダメだなと思い、鋼は頭を掻いた。プロットが上手く作れない。どうしても、あの暗く淀んだ黄色の瞳が覆い被さってくる。あんなに美味しそうに食べたものを全部吐いてしまった時の黒刃の顔が、抉れてぽっかり穴の空いた蒼白な血まみれの腕が、目の裏にこびりついて離れない。ひどく寂しそうで、壊れてしまいそうなほど神経質な藤色の瞳を忘れられないのだ。
 鋼は深くため息をついた。いつものように愛想のいい言葉を並べようと思った。典型的な質問が来るだけだ。なんとかなる。
 となれば、真の問題は胸の底にたむろした忌々しさの方だった。自分の平和ボケが招いたことだというのが恨めしくてたまらない。たまらなくむしゃくしゃして、何かを粉々にしたくてたまらなくなる。鬱憤を昇華するための表現が言語化できるほどまとまらず、ただグルグルと頭の中を回り出して止まらなくなる。
 ついに耐え切れなくなってベッドから立ち上がったその裾を、しかし、後ろから伸びた手が掴んだ。たっぷり一秒の間を開けて振り返ると、黒刃は黙って目線だけを鋼に向けていた。
 まだ顔が赤い。瞳も潤んでいる。きっと熱のせいだろう。妙に艶っぽい唇が薄く開いている。鋼は生唾を呑み、ぎこちなくベッドに座り直した。
「どしたの?……水飲む?」
 黒刃が頷いたので、鋼は少しずつ水を与えた。冷たすぎないように温度を調節しながら唇に雫を落とす。水滴を嚥下していくのどを無意識に眺めていると、黒刃がかぶりを振った。水を止めて、汗ばんだ黒い髪を撫でる。
「しんどい?」
「ちょっと。でも、へいき。」
 まだ喋りにくいらしい。熱でぼんやりしていると言った方が近いかもしれない。鋼は溶けた氷嚢の一部を再度凍らせた。裾を掴んだ右手を離させて、包むように握る。黒刃の手が冷えているのと対照的に、鋼は自分の手をひどく熱く感じた。
「寒い? ちょっと震えてる。布団増やす?」
「ううん……。」
 じっと見つめられて、質問ばかりしていることを自覚する。鋼はうなじまで熱くなるのを感じた。影に覆われた背中が重い。
 一方の黒刃はふと目を伏せて、口を薄く開けたり、やっぱりやめたりを何度か繰り返していた。されどしばらくして、結局話すことにしたらしい。それでもまだ目はそらしたままだ。
「……俺、誤解してた。もう自分のことを自分で守れるくらいには、強いって、思ってたんだ。」
 言葉尻が震えたような気がして、鋼は彼の顔を見られなかった。黒刃の力んだ指先を、鋼が優しくなぞる。
「俺の左腕の分を貸してるだけだと思ったら、一世紀足らずで応用を九種も修得した時点で優秀だよ。十番目の『雨蛙』だって、ちゃんと上達してきてる。」
 鋼はたいした慰めにもならないと分かっていながら、そんなことを口走った。
 自分の力は天恵だ。でも黒刃のは違う。生来の力でないものを鍛えることの難しさも自分には分からない。ただ黒刃が、神技の練習に課した雑事を欠かさず続けていることを、ずっと見ていた鋼は知っている。
「黒刃の努力が足りないんじゃない。それは生まれの違いで、魂に資質が刻まれてるかどうかの話なんだ。自然なものって誰の責任でもない。生まれることとか死ぬこととか、そういうのってあくまで自然なはずなんだ。誰のせいでもないんだよ。」
 そっと呟くような鋼の言葉と入れ替わりに、歯を噛み締める微かな音がした。
「でも俺、鋼のこと、鋼が人間だった頃は全然救ってやれなかったから……だから今度は、ちゃんと……ちゃんとしなきゃって…………」
 顔を背けた黒刃の髪がさらりと音をたてて散る。鋼は少しためらったが、そっと手を伸ばして指の甲で髪を撫でた。柔らかい肌と、温かい雫が指先に触れる。
「黒刃は優しいね。俺はさ、もうずっと前からこんなだし、そうでなくても斜に構えてる。俺への信愛を継続してくれる人は少ない。でも……」
 一旦口をつぐんで、鋼が座りなおした。流れてきた分厚い雲の下で、月光が途切れる。
「君は、違うでしょう?」
 透き通った声音が弦を弾いた。黒刃が横たわったままで恐る恐る鋼を見返す。鋼は人差し指で黒刃の胸の中心をクッと突いた。
「考えるんだよ。努力では補えないことを、何なら埋め合わせられるのか。自分の頭で考えるんだ。確かに考え続けるのは楽じゃない。私に頼った方がずっと利口かもね。でもその楽さは、容易く怠惰と同化するんだ。失敗した時、私を言い訳に使うという怠惰と。当然それでは、君は君自身の幸せを実現できない。むしろ君のように自分の生き様を全うしたいと強く願う者は、いずれそんなふうに思う自分をいじめだすだろう。君自身を自己否定の渦に追い込み、自死という選択すらも想起させる。だから、君みたいな子は自分で考えて、自分でケジメを付けなきゃいけない。」
 溢れ出した水が流れ落ちるように一気にそう言って、鋼は少しだけ表情を緩めた。
「泥臭くてこその命だ。助けを求めてもいい。弱音はいくらでも吐いていい。時には立ち止まることや、引き返すことすら必要かもしれない。でも考えるのは止めるな。君が進むべき方向を決めるのは、絶対に君自身でなくてはならない。自らの生き様を哲学する時、人は孤独でなければいけないんだ。」
 そこまで言った唇は、ただ静かに閉ざされた。
 蠟燭の炎が碧眼の中で燃える。黒刃は目を丸くして鋼を見上げた。目尻に溜まった涙が頬を伝ってはらりと落ちる。黄色い瞳に差し込んだ青い眼光は、すでに次の涙を乾かしてしまっていた。まつ毛にわずか残った雫が、まばたきに耐えかねて飛び散る。
 だが鋼は、黒刃の視線に宿る畏敬のようなものに気付いた途端ひどく苦しくなって、一瞬の隙を突いて目を伏せ、そらした。
「……今日はもう寝ようね。大好きだよ、黒刃。」
 母親のように額にトンと口付けて、黒刃に羽毛布団をかけ直し、ベッドから離れる。
 ちょうどその時だった。雲の切れ間に月が差し掛かって、スポットライトのような強い光が天窓から射し込んできた。物の輪郭が霞む。鋼は、膨れ上がった影に並ぶ裂き開いたような目が自分を追ってくるのを感じた。鼻息のような笑い声がうなじにまとわりつく錯覚に、鋼の右手が、肉が潰れるような音を上げて握りしめられた。みぞおちに溜まった鉛の塊を引きずって、足がようやっと前に出る。
「……いかないで。」
 だが後ろから呼びかけたその声に、鋼は立ち止まり震えあがった。凍えたような吐息が鼻から漏れる。鋼は振り返るだけして石像のように固まった。だが黒刃と目が合ってしまえば、もう目を細めざるを得ない。
「頭の中が、ぐちゃぐちゃなの……だから、今日は……」
 鋼はギラギラした目を微笑でひた隠し、なんとか踏みとどまるように声を絞り出した。そうでもしなければ、唸り声が鳴り止まなくなりそうだったのだ。
 されど黒刃の右手は、服の端を掴んで離そうとしなかった。黙ったまま、今日一番に力強く鋼を引き留める。
 束の間、耳にかかっていた藍色の髪がずり落ちて頬を隠した。顔の筋肉が弛緩して、うなじにかかる生暖かい息がのどにまで絡みつく。そんなこと実行するだけの度胸もないのに、気付かぬ内に失うくらいならいっそ足を奪ってしまえだの、そもそも喰らってしまえば全部自分のものになるだの、とにかくそういった攻撃的な妄想が頭の中を蹂躙し始め、息が止まりそうになって、そして、どうしようもなくのどが渇くのだ。
 鋼は突如、黒刃の右手を取り上げ、飛びかかるように彼に覆いかぶさった。黄色い瞳が溶けた飴のようにいいものに思えてくる。ずくずくと脳髄が沸騰して、衝動に促されるまま、鋼は無抵抗の唇を食らった。けれど膜は降りてこない。だからこれが自らの意志だということは、嫌になるほどはっきりしていた。圧倒的な支配感と、息が上がるほどの焦燥感に突き動かされて、右手を捕まえた左手がシーツの海に深く沈んでいく。
 しばらくして口が離れ、黒刃はやっと息をついた。束の間、のどを鳴らしたシアンブルーの中央に空いた暗い穴が緩む。
「妖狐。」
 先ほどまでと一変した鋼の低い声に応え、蝋燭の炎がかき消えた次の瞬間、分厚い水の壁がベッドを取り囲んだ。外界の音と光を全反射して、『妖狐』の内側はほとんど闇一色だった。その中で、一対の獣の目が爛々と輝く。黒刃はその細い指先を牙と見紛うて、たじろぎそうになるのを堪えた。鋼はもはや、碧眼の獣そのものであるかのようだった。
 胸を踏みつけてのしかかった獣の、鋭く光る牙が喉元を捕らえる。漏れ出た呻き声と同時に、拳上された左手の指先が引きつった。黒刃ののどが鳴るたび、鋼の唇が横に開いてゆく。
 すべての急所を無防備にさらして横たわる滑らかな肌。その下に隠されている鮮やかな赤い血肉と陶磁器のような乳白色の骨。それらを認識し、あるいは想像した時、鋼の口の端は奇妙に歪んだ。

この度のお話、お楽しみいただけましたでしょうか。今後も、内容やテーマに対して責任をもち、読んでくださるみなさまに思いが届くよう、作品と真摯に向き合っていく所存でございます。 もしも支持したいと思っていただけるようであれば、サポートという形でお気持ちをいただけると恐縮です。