桜のシーズンに思い出すこと

若い頃はあまり興味がありませんでした。それなのになぜ大人たちは開花と散花に一喜一憂し、咲き始めたら高いテンションでそれを見ようと競い合い、なおかつ奇妙な心理投影で日本人の気質をたとえたがる・・・桜の花に対する日本人の思い入れは、私にとって長い間理解不能でした。

それでも年を経るに連れて、やはり「桜の花が咲き誇る風景はいいな」と思うようになりました。

特に海外で暮らしていた時は、そこが北回帰線より南に位置する、いわゆる「常夏の国」だったので、この時期にパソコンやスマホのモニター越しに見る桜の花を羨ましく眺めたものです。

年に一度の数日しか満開にならないんだから、好きな人たちと一緒に楽しみたいよね、と「花見の宴」を企画する気持ちがよくわかるだけでなく、実際にそうしてます。ハイ、人はかように変化するのです。

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行き暮れて  木の下陰を    宿とせば 花や今宵の    主ならまし

疲労感とともに帰宅する途中、トボトボ歩きながら桜の木を見つけた時など、「平家物語」の武将、平薩摩守忠度のこの歌を思い出します。

その意図がないままに、気がつけば何かと意味なく戦ってしまい、しかも何の甲斐もなく、「自分は何をやっているんだろう」という気持ちになった時に癒してくれるものとは、まさにこのような光景なのではないでしょうか。

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願わくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月の頃

満開の桜の木を下から見上げると、この歌を詠んだ西行法師の気持ちがよくわかります。今この瞬間に昇天できたら、自分の魂もこの花の精霊の一部になれそうだなどと思ったりします。

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ある時、こんな出来事がありました。確か10年くらい前の桜の季節です。

その日、私は仕事で朝の通勤電車に乗っていました。この時間帯に郊外から都心に向かう電車というのは通常よりも走るスピードが遅いので、風景が車窓をゆっくりよぎっていきます。

その時、窓の向こうの公園で咲いている一本の桜の木が私の視界に入り、ゆっくりと右から左に流れていきます。その次の瞬間、気がつくと目から涙があふれていました。

うまく表現できないのですが、この瞬間がこの世界の本質を表しているような気がしたからだと思います。

同じ車両にまるで詰め込まれるかのように乗っている私たち。この電車に乗ってから降りるまでが「人生」で、その距離や時間はそれぞれです。

にもかかわらず、ここにいる人同士は不思議な巡り合わせで同じ場所と時間を共有している。しかも、すぐ隣に立っている人ですら、ここで別れたら二度と出会うことはないかもしれません。

そういう相手と一緒にこの美しい風景を見ている。いや、隣の人は別のものを見ていて、桜の風景を見ていないかもしれない。あるいは目に入っていても何も感じていないかもしれない。

この電車に乗っている人のうちで「きれいだな」って思った人はどのくらいいるんだろう? 

その人たちと「きれいだね」って言い合うにはどうしたらいいんだろう? 

気がついていない人に「見て! 桜がきれいだよ」と伝えるにはどうしたらいいんだろう?

後からこの涙の意味を解釈しようとすると、少し違ってきてしまうかもしれませんが、いずれにせよ、この瞬間がたとえようもなく貴重で愛おしく、そして神秘的なものに感じられたことは確かです。

あの時以来、桜の花を見て涙を流すことはありませんが、私にも「覚醒体験」というものがあるとするなら、こういうことをいうのかなぁと思ったりします。

そして桜の花を見るといつもこの時のことを思い出します。

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