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バブルとサッカーと競馬と

冒頭の写真は、昨日、ドバイシーマクラシックで5着と大健闘したユーバーレーベン。当歳時に、牧場横を通る道路から偶然撮影したものです。


今週は、サッカーと競馬の世界で、実に象徴的な出来事が起こった。

今から約30年前、初のワールドカップ出場にあと一歩まで迫っていたサッカー日本代表は、ハンスオフトが犯した最初で最後の致命的な采配ミスによって、日本のサッカー史に残る悲劇を経験することに。

ちょうど時を同じくして、鳴り物入りでアメリカから日本に導入された名馬サンデーサイレンスは、順調に子孫を増やしながら、初年度産駒のデビューを今か今かと待っていたのだ。

当時は、バブル経済の絶頂期。時に揶揄されることも多い時代ではあったが、もしあのようなイケイケの時代がなかったら、3月24日のシドニーの歓喜はなかったのかもしれないし、昨晩起こったドバイの衝撃もまた、夢のまた夢で終わっていたのかもしれない。

そう考えると、「バブル」とはいうものの、実際のところすべてが「泡」のように消えていったわけではなく、今の時代に脈々と引き継がれる財産を、地に足を付けて紡いでいた部分も間違いなくあった。今になって、ようやくそう気づかされるのである。

日本サッカーの原点は「ドーハの悲劇」にあり


90年代前半の日本サッカー界では、Jリーグ発足に伴い、ジーコ、リネカー、リトバルスキー、ストイコヴィッチ、スキラッチなど海外のトップ選手が、好景気を背景に次々に来日。日本サッカーのレベルを押し上げることに、海外のスターが大いに貢献してしてくれた時代だった。

ただそれだけなら、約10年前の中国も同じ状況だったようにも思えるのだが、「次につながったかどうか」という視点で言えば、待っていた未来は中国サッカー界とはまったく別のものだったようにも思える。そう、今、私たちは、30年という長い月日の中で積み上げてきた日本サッカーの本質を、目に見える形でじっくりと味わうことができている気がするのだ。


"ポイチ"こと森保一監督は、言うまでもなく「ドーハの悲劇」を選手として経験している。だからあの苦しい時間帯に、運動量の落ちていたゴン中山に替えて、武田修宏投入を選択したハンスオフトのあの判断が、ゲームの結果を大きく左右したであろうことを強烈に肌で感じている一人なのだ。もちろん、それを表立って口にすることはないけれども、、、

そのポイチが、あれから約30年の時を経て、期せずして当時と似たような場面設定に出くわすこととなった。そんな皮肉とも言えるような状況が整った中で、彼は南野拓実に替えて点取り屋の三笘薫を投入したのである。


いや~、この采配には本当にシビれた。もし、シンプルに目の前の試合だけに集中していたのなら、この交代を極めて妥当なものとして受け止められたのかもしれない。

だが、繰り返しになるが、ポイチはあのドーハで交代カードの切り間違いがどんな結果を招くのか、誰よりもよく知っている監督なのだ。

そんなポイチが、勝負どころのあの最高潮にヒリヒリする場面で、自信を持って三笘薫を送り出す。あの時のスコアは、まだ0対0だったのだけれど、あのシーンを観て、思わず私はジーンときてしまった。それくらい、ポイチの強い覚悟が伝わってきたし、あのドーハの経験を糧として、日本サッカー界が30年かけて積み上げてきたものに対するリスペクトをヒシヒシと感じさせてくれたのである。


そして、三笘薫はポイチの期待に応え、見事に結果を出すことになる。けれどもフォーカスすべきは、彼がゴールを決めたことだけではないだろう。そう、ピッチに立つ彼の姿からは、強い守備の意識が感じられたのだ。

この様子は、ドーハのピッチに送り込まれた武田修宏が見せた姿勢とは、まったく異質なものであった。むしろ、それと比べるのが失礼なほど……。

ひとつフォローしておくと、私は武田修宏という一人のサッカー選手をディするつもりは毛頭ない。当時のドーハで、ああいうメンタリティーの選手がピッチに立つという状況が生まれたのは、もちろん本人のキャラクターという要素もあるのだろうけれど、それ以上に、日本サッカー界の成熟度が足りなかった。そのひとことに尽きるのだろうと考えているからである。


まだ若かった私は、ドーハの悲劇が起こった瞬間、深夜、テレビの前でしばらく言葉を失っていた。だが、あの経験があったからこそ、3月24日の夜は自分の人生の中で特別な時間となったような気がする。

細かい采配の良し悪しは、いわゆる「サッカー評論家」たちが、仕事として好き勝手に語ればいいだろう。

ポイチはあの夜、「ドーハの悲劇」の記憶と正面から向き合ってきたすべてのサッカーファンに、最高の贈り物をくれたんじゃないかと思う。試合に勝ったこと、ワールドカップ出場を決めてくれたことはもちろんだが、それ以上に大切なモノを。

サンデーサイレンスが変えた日本競馬の歴史

バスラットレオン
→ キズナ → ディープインパクト → サンデーサイレンス
ステイフーリッシュ
→ ステイゴールド → サンデーサイレンス
クラウンプライド
→ リーチザクラウン → スペシャルウィーク → サンデーサイレンス
シャフリヤール
→ ディープインパクト → サンデーサイレンス


これは、昨日行われたドバイワールドカップミーティングで勝利を挙げた日本馬5頭のうち、バスラットレオン、ステイフーリッシュ、クラウンプライド、シャフリヤールの4頭に関するサイアーラインを簡単に示したもの。

社台グループの創業者でもある吉田善哉さんが、その資金力と地道に作り上げた人脈を最大限に活用して、かのバブル時代に、もしもサンデーサイレンスを日本に導入していなかったとしたら、、、

今、私たちが見ている景色は、まったく別のものになったであろう。そう考えただけでも、よりスゴイものを我々競馬ファンに魅せてくれたようにも思えたし、その反面、得も言われぬ歴史の恐ろしさのようなものも突き付けられた気分にもなった。昨日は、オールド競馬ファンにとって、そんな衝撃的な夜だったんじゃないかな……。


ここで少し時間を巻き戻し、日本調教馬の海外遠征の歴史を振り返ってみたい。歴史が動いたのは1998年のこと。シーキングザパールとタイキシャトルが、2週続けてヨーロッパのGⅠレースを勝ったことが原点になると言っていいだろう。

ただ、この2頭は外国産馬でもあった。その後、日本競馬の歴史を変えることになるエルコンドルパサーもまた、外国産のキングマンボ産駒。つまりこの時点ではまだ、国内生産馬が海外に遠征して、向こうの一線級の馬たちと互角に戦えるようなレベルにはなかったということなのだ。当時の日本ではまだ、父内国産限定のレースが普通に組まれていたわけだし……。


ところが、、、である。前述のとおり、今年のドバイミーティングで勝利を収めた日本調教馬は、ドバイターフを同着で制したパンサラッサを含め、そのすべてが日本産馬。

さらに言えば、クラウンプライドの父リーチザクラウンや、先月のリヤドダートスプリントを勝ったダンシングプリンスの父パドトロワなどは、サンデーサイレンスの血を引く種牡馬の中でマイナー中のマイナーと言っていい位置にいるのだからスゴイ。サンデーサイレンスの導入が、日本競馬の歴史を大きく変える転換点になったことを裏付ける事象が、今年に入って次から次へと積み重ねられたのである。

歴史をつくるのは今の時代を生きる私たち


そうそう、サッカーにも競馬にも、無駄な歴史なんて、ただの一つもないのだ。あのドーハの悲劇も、ナドアルシバの夜に散ったホクトベガの悲劇も、単なる負の記憶として語り継がれるだけでなく、今の時代に確実に生かされている。そう断言してもいいんじゃないかな。

つまり、今、私たちが観ている景色は、紆余曲折を経ながらも、きっと未来へと着実につながっていくに違いないのだということ。バブルからデフレへと社会環境が大きく変化しても、現実としてそこで起こっていることの価値の大きさは、おいそれとは変化しないということなのだろう。

ならば、サッカー日本代表が、いつの日かワールドカップで優勝する日がやってくるのだとしたら、先日のシドニーの歓喜、そして森保一監督の渾身の采配は、歴史上の大きな出来事として記憶しておくべき1ページになるのだろうし、もし、凱旋門賞やブリーダーズカップクラシックを日本生産馬が優勝する日がやってくるのだとしたら、昨日のドバイの衝撃もまた、歴史の転換点の一つとなる大事件として、より深く胸に刻んでおくべき貴重な記憶となるような気がする。



今週は、サッカー界、競馬界それぞれにおいて、歴史に残る重大な出来事が起こったので、あえて「本気の競馬力向上研究所」の投稿として、あれこれと戯言を並べてみることにしました。

要は、今、目の前で行われているサッカーの試合や競馬レースを、20年後の自分の視座から観察してみたらどうだろう、という提案を読者の皆さんにしてみたかったということなんですね。少し自分の立ち位置を変えてみるだけで、ずいぶんと物事の本質に近づくことができるかもしれない。ちょっとでいいから、そんな気分になってもらえたらうれしいな、と。

拙文に最後までお付き合いいただき、誠にありがとうございました!

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