蓮實重彦・金井美恵子対談「反動装置としての文学」抜粋

 蓮實重彦の対談集『魂の唯物論的な擁護のために』に、金井美恵子との対談「反動装置としての文学」(『文藝』1993年春季号)が収録されています。
 毒舌家同士の対談だけに、かなり笑えます。
 だいたい、開幕が次の応酬というだけで爆笑です。

"――蓮實さんは三年間の「文藝時評」(「文藝」一九九〇年春季号〜九二年冬季号)を通してさまざまな角度から文学をご覧になっていらっしゃったわけですが、その間お感じになったことからお話し下さい。
蓮實 金井さんがどう処理していらっしゃるのかお聞きしたいところですが、「文藝時評」が終わった後、それまでとっておいた文芸雑誌を全部粗大ゴミで出しました。書いている間は数ヵ月前のが何か問題になると思って一応とっておいたんですが、これが大変な量なんです。文芸時評をしている人たちが文芸雑誌がどう処理しているのかという現実的な問題が最初に思い浮かびますね。
金井 いやな仕事ですね、時評というのは。ゴミを捨てられない(笑)。
蓮實 僕は今回、三年とっておいたんです。「文藝」は季刊だけれども、「早稲田文学」もあるし、「三田文学」もありますし、いわゆる月刊の文芸誌のほかに大変な数になる。そういう物理的な問題を、文芸時評家が今までどう処理してきたのかを知りたいと思う。中村光夫が、これは名言だと言われるんだけれども、「きみ、本というものは、売らないとたまるね」と言った、というのね(笑)。それが最大の問題だったんだけれども、つい数ヵ月前に、やっと全部払いました。
金井 それはほっとなさったでしょう。
蓮實 ええ。だから、もう文芸時評の話はしたくない(笑)。それより、金井さんは、文芸時評はなさらないんですか。"

"金井 もちろんオタクが読めばいいと思うんだけれども、書評なり時評なりを書く人というのは神経症なマッチョじゃないかなという印象を受けますね(笑)。
蓮實 たとえば誰ですか(笑)。
金井 それはたくさんいます(笑)。小説家にもいるしね。
蓮實 批評は母親的じゃだめなんですか。
金井 母親の性格にもよるわけで、母親的な抑圧というのもありますからね。
 マッチョは、賞賛するのが下手なんですよね。たとえばある批評家が、中上健次の『枯木灘』に比べて『岸辺のない海』を評価してくださるんだけど、それはまあ、「怖れ入ります」と言いたい(笑)。でも「その主たる表情に野卑と典雅の相違こそあれ」「共通しているのは繊細な吃音」といった紋切り型でついでに書かれると苛々する。マッチョの批評文体は、妙に漢文体風の「美文」になりますよ。「主たる」とか「たり得ない」「おのれのものとする」とかね、蓮實さんの影響なのかもしれないけれど(笑)。それに、マッチョは小説を読み間違えます。ギョッとするような読み間違えをしますね。映画を見てないせいで、小説の時間と空間の処理に対して無感覚だと思う。「文学」は好きかもしれないけれど、「小説」から愛されたことがないのがマッチョ(笑)。断言癖があってね。
蓮實 そう。断言するんです。「バブルの崩壊以後は文学は真面目になった」と言ってしまう人がいるんですからね(笑)。どこかでためになろうと思うから、マッチョ的になるんでしょう。
金井 ええ。マッチョというのは、キッチュでやってる意識を持ってないと見苦しい。"

"蓮實 「マッチョ的」と言ってもいいし、「男根的」と言ってもいいんだけれども、ファロスというとやはりもっと偉いものなのね。いわゆる男根的というものは、もっともっと階層的な秩序があって、そしてやはり命令を下すものだと思うわけだし、その命令というのは作用するんですよね。マッチョ的なものというのは、啓蒙的だけれども、たいした作用はないんです。ですから、できればもっと、みんな本格的に男根的であってほしいと思うのだけれども、いま男根が非常に弱いんですよね。衰弱しているんですね。それからまた、「男根的である」と言うのが悪口になるような時代になってしまったでしょう。たしかに真に男根的なものが出てきたら問題なんだけれども、男根の表層の表層くらいでやっている人たちを、絓(秀実)さんあたりが、つい「男根的だ」と言ってしまう。これは間違いだと思うのね。
金井 あんなものが男根的なものじゃないということね。アメリカ人の女の日本文学研究者の人たちと話をしていると、日本には文学に限らず男根はない、あってもごく弱々しいものだと口をそろえて言いますよね。
蓮實 せいぜいマッチョ的なんですよ。男根的なものは見えないんだけれども、マッチョ的なものは見えてしまうでしょう。
金井 そうそう。マッチョというのは表層の表層ですものね。批評を書こうとすると、いちばん簡単に手本にできるのがマッチョのやり方なんでしょうね。なにしろ男根的規範がないからね。"

"蓮實 そのときに、文芸時評を批評と取り上げるならば、批評というのは何かという問題が、どうしても出てくるでしょう。そうすると、結局批評というのは一つしかないですね。一つしかないというのは、表象空間、あるいは記号空間と言ってもいいんだけれども、記号空間というものは記号だけでは成立していない。それから表象空間というのも、表象行為、表象だけで成立しているわけではない。必ず何か、それを支えていると言うと変なんだけれども、あるいはその底をぬいてしまうような何かがあって、記号空間なり表象空間なりが成立する。そして、その成立した批評空間なり記号空間というものを無意識に受け入れてそれを成立させている何かを忘れている連中がマッチョだと思うのね。つまり、文学は続くだろうと思っているわけね。
 それから、今の文学活動というものは、悪くなれば、どこかでよくなると思っている。ところが僕は、文学はいま必要なんだというふうには全く断言しないけれども、あるとき必要でなくなることがあると思ってやっているわけです。仮に僕がマッチョ的に振る舞うことがあったとしたら、ことによったらいつか必要でなくなるかもしれない文学をいま殺してしまおうという手続きを、時に見せたんですね。"

"蓮實 だから、今日のフェミニズムの連中というのも、絓秀実が言いたくなるのも分からなくはないような「男根性」があるけれども、あれは僕は単なるマッチョ、大学マッチョと思っているんです。アカデミズム・マッチョで、ほとんどが非常にアカデミックな文章なのね。特にアメリカのものなんか見ると、マルクス主義的なフェミニズムであれ何であれ、非常にマッチョ的になっている。
金井 文体の問題として、というか書き方として小説はマッチョ的側面を持ってしまっている、ということですか?
蓮實 最大のマッチョは山田詠美だと思うね。あの人の断言癖は、すごいですね。
金井 「……なのだ」というのね。
蓮實 そう。それから人生の問題を語ってしまうでしょう。
金井 アレックス・コックスの『シド・アンド・ナンシー』も純愛物語として感動しちゃうようなね。
蓮實 ちょっと不思議な気がしまうね。大正時代に戻ったような気がする。
金井 女壮士風にお説経しちゃうのね、小説の中で。"

"金井 ちょっとずれていますね。「女流」と「文学」に毒されていないのだってことは(必ずしも読書量が少ないから、というわけではなく)分かりますけど、若い女性作家――若くなくてもそうなんですけれども――は、もともと書きはじめるきっかけというのが、存在論的な意味でのかすかな違和感みたいなものからはじめてしまうでしょう。違和感というのを、バカみたいな制度的な小説に仕上げてしまうのが「女性作家」ですよね。女の作家の小説を読んでいると、違和感を書くことが小説を書くということだと思っているんだろうなという人が、ずいぶんいると思うんです。吉本ばななも最初はそこはかとない違和感を書いているのかなと思ったんだけれども、それより少女マンガのヴァイタリティーみたいな貪欲さがあるんだと思う。文学的じゃないんでしょうね。少女マンガのコマ割りのセンスで小説を書いていて、それが山田詠美的に野暮ったくないのかもしれない、分析はできませんけれども。"

"蓮實 たとえば富岡多恵子さんは、むしろ漢字を排した感じで、平仮名のほうが多いという感じだけれど、それとは違いますね。富岡さんは明らかに漢字を排して、それである種の文体をつくっておられる。あの小説はちっともマッチョじゃないのに、何か事を論じられるとなると、どうしてもああマッチョになってしまうんだろうなと、僕は不思議なんです。
金井 不思議ですよね。小説の中でも、議論とか、突然話者が怒り出して演説してしまったりするようなところがありますね。
蓮實 あれは六〇年代を引きずっているんでしょうか。
金井 どうなんでしょう。あれはマン・ヘイティングだっていう女の読者もいますね。書いていると本気で頭にきちゃうんでしょうね。もろもろのことに、だんだん腹がたってくるんじゃないかな。
蓮實 でも、小説はそれではだめでしょう。
金井 ええ。ここで怒りはじめるなというところで、必ず怒っちゃうでしょう。話者とも作者とも言える人物が、いろいろなことを怒りはじめてしまう。六〇年代に書いていた詩はもう少しストレートではなくて、怒るというより不貞腐れているという感じのものでしたけれどね。とぼけたような、ひょうひょうとしていたけどね。
蓮實 もっと田中小実昌を真似てほしいと思うんですけれども、やはりそれだけのものではないんでしょうね。"

"蓮實 中上さんのものでは、何がお好きですか。
金井 やはり『枯木灘』。
蓮實 僕もそうであると同時に、いま短篇を書ける人が、中上健次と、もう一人金井美恵子しかいないと僕は思ってた。
金井 私もそう思っていたけれど(笑)。中上さんの短篇は、反動的な意味でも上手ですよね。
蓮實 上手だし、長篇だけれど『鳳仙花』だっていい。短篇は、もちろん「俺しか短篇は書けないよ」という感じで書いていると同時に、「若いやつ、まともな短篇を書け」というメッセージであもあるように思うわけです。それに対応していたのが僕は金井さんだと思うんだけれども、短篇はどうしてこんなにだめになってしまったんでしょう。あるいは、書けないものなんでしょうか。
金井 一昨年あたりなか、野口冨士男の新聞のインタヴューを読んでいたら、「小説というのは十九世紀にもうすでに終わったものだ。しゃっちこ立ちしたってドストエフスキーは書けない」なんて言っているわけです。文学を信じて生き延びさせるために営々とやっていたニンゲンが、ここに至って、小説というのは十九世紀で死んだものなんだというふうな発言をするわけでしょう。十九世紀に生きてた作家だって、ドストエフスキーになれなかった人は大勢いたわけで(笑)、そうすると才能ということになるのかもしれないけれど。でも誰も二十世紀が文学の世紀だなんて思ってはいませんもの。短篇小説をうまく書くなんていうことは、やろうとしても駄目なんでしょう。
蓮實 阿部昭が短篇がうまいと言われているけれども、僕はちっともうまいとは思わない。
金井 ええ。むしろ下手と言うべきものですね。
蓮實 それから坂上弘とか、とても短篇として読めない。読めないというのは、彼らのほうが反動性が少ないからですよね。ただし金井さんの短篇の場合は、これはむしろ金井さんの欠点とさえ言いたいと思うんだけれども、反動は嫌だという気があるでしょう。
金井 ええ。そうね。
蓮實 反動が嫌だとすると、「原色図鑑」とか……。僕は、そういうものはあっていいと思うんです。
金井 反動は嫌だという小説家がいないと、いくらなんでも保守体制にはまり込んじゃう。
蓮實 そこまで言ってしまうと身も蓋もないんだけれども、やはり短篇小説は原稿料が安いからなんじゃないんですか(笑)。
金井 原稿料は安いですね。私なんか行替えがほとんどない文章だから、字数で計算してもらいたいと思って計算したことがある(笑)。
 一時、そういう言われ方もありましたね。短篇というのは力を入れて推敲して「珠玉」という言葉になるように書くものだ、という言説があったわけだから、そういうものがまだ残っているというふうに思われていたときは、どうして短篇が駄目になったかというと、やはり原稿料が安いからだという言われ方がありまして、なぜなら、稿料を稼ぐために一枚ですむところを、二枚三枚にひき伸ばすから結果的に水増しされて駄目になる。"

"蓮實 そう。短篇を書けというわけじゃないけれども、僕は短篇がもっとあってもいいじゃないかという気がするんです。「文藝」のものでは「白い血」(真木健一)が導入部はけっこういいなと思ったの。導入部を読んで「四十枚なら持つな」と思ったら、三百五十枚。全く持たないんですよね。あいつは短篇を書けると思う、そういう感じで読んだものは、最近ないですね。
金井 キャシー・アッカーのハイスクール小説なんかに比べちゃうと男根のない国ではかわいそうなんだけど、今度の「新潮」新人賞の二作よりずっといいと思いました。途中から『人生劇場』青春篇みたいになっちゃうけど、最初のほうはちょいとロックン・ローラーしてますよね。女の人のほう(三浦恵「音符」)はファッション雑誌のキャプションそのもの、イメージだけで。
蓮實 二十二歳か何かで、若さで書いてしまったというところがあるんだけれども、これをもう一度誰かが男根的に抑圧してやると、「ことによると、こいつ……」という筆力はありますね。あれは佳作になったんですか? もう一人の人のよりは、僕はずっと面白かった。
 最近は誰も長さと勝負していない。ということは、形式として勝負していない、時間とも勝負していないということだと思うけれども、ごく単純に言って、長すぎるものが多いんです。これは映画と全く同じ。
金井 今や、反動そのものかもしれないゴダールの映画も短いですものね。
蓮實 ええ。それで充分なわけでしょう。「それで充分」というのは、これまた一つの反動的な価値判断の基準ではあるわけだけれども(笑)。でも、それでいいと思うんです。"

"金井 映画を見ていると、才能だということは本当にはっきりしますね。才能があるかないかというのは、一目で分かりますね。
蓮實。一目で分かる。だから、いま新聞を書いている人たちは新聞が好きなんです。文学をやっている人も文学が好きなんです。文学なんか読んだことありませんという人も、みんな文学に似ちゃうでしょう。それは結局何かと言うと、これも金井さんもよく言っているし僕も言うんですが、要するにその人たちは文学から愛されていないわけね。
金井 そうそう(笑)。文学を愛してる人は「惚れたが悪いか」なんて言うんですよ。悪いに決まっている(笑)。文学を愛していて自己表現する人というのは、文学から愛されませんよね。"

"蓮實 文藝春秋の『日本の論点』は読まれましたか? 面白いですよ。悲惨なまでに面白いです。日本の論点ということで知識人がいろいろ書いているんだけれども、まず「知」がないの。それから文章構成力がない。批判精神がないと構成もへったくれもないわけでしょう。綴方みたいなんです。
金井 広告を見たけれど、赤瀬川原平なんかも書いているんでしたね。西部邁とかその手の人たちで、なんだか名前みただけで退廃とか退嬰という言葉を思い出しますね。
蓮實 これは悲惨なものなの。みんながみんなというわけではないけれども。つまり、一つのメディアとして本当に悲惨なんです。誰もものを考えていない。これはすごみがありますよ(笑)。さすがに全部は読んでいませんけれども、わざと現代の日本の知識人はこれほどだめだということを二十一世紀に残すためのものとしてやっているとしか思えない。すごいものですよ。"


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