新自由主義と陰謀論
・陰謀論としての新自由主義
良記事『「新自由主義」批判がグダグダになりがちな理由(ジョセフ・ヒース論文「批判理論が陰謀論になるとき」メモ)』で、陰謀論としての「新自由主義」批判が話題になった。
帰無仮説として退けるべき「新自由主義」が仮定されがちだということだ。
現在、「新自由主義」がマジック・タームと化していることは疑いえない。
だが、新自由主義という作業仮説を捨てることもできない。
第1に、歴史上、新自由主義という政見と政策パッケージが客観的に存在したからだ。
第2に、ある理念が因子として働くことがあるからだ。仮に、そうした因子を認めないなら、因果推論における合理的な因子を除けば、性差別にジェンダー・バイアスは存在しないということになる。
しかし、「新自由主義」批判で正確な統計分析がされているとは言いがたい。
ノーベル経済学賞の受賞者で、明確に新自由主義的な政策を批判しているのは、スティグリッツ(『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』『世界の99%を貧困にする経済学』)、バナジーとデュフロ(『絶望を希望に変える経済学』)、ディートン(『大脱出』『絶望死のアメリカ』)だ。
少なくとも、開発経済学において、ワシントン・コンセンサス、すなわち自由市場原理主義の導入は否定されたらしい。
だが、先進国における新自由主義的な政策は不明確で、ディートンは『絶望死のアメリカ』で、因果推論を使えないため歴史学の手法を用いるとまで言っている。
・新自由主義
では、理念としての新自由主義とは何なのか。
酒井隆史『完全版 自由論』所収の『権力と内戦――『自由論』への一八年後の自注』が、Philip Mirowski『The Road from Mont Pèlerin』(筆者未読)に基づき、かなり分析的な定義を述べている。
以下に要約する。
1. 構築主義:ネオリベラリズムは古典的リベラリズムではない。自由放任主義(レッセ・フェール)ではない。市場原理主義の社会は自然に生成せず、構築されなければならない。
2. 理想化された市場:とくに、ハイエクの市場。価格は国家を超えた情報処理。
3. 1と2にもかかわらず、市場原理主義の社会を自然なものとして扱わなければならない
4. 国家を解体するのでなく、その形態と機能を再編する
5. 民主主義とその統治能力への懐疑:政治を市場経済と見なすことで、その問題を解決しようとする。
6. 「自由」至上主義:ただし、その「自由」はネオリベラリズム論者が定義したものしか許されない。
7. グローバリズム:国際的な市場経済を形成するため、他国に介入する。
8. 政治的・経済的不平等は、資本主義の不幸な副産物でなく、市場経済に必要な機能:平等を要求してはならない。ひとは富裕層を模倣し、競合しなければならない。
9. 企業の無謬性:企業はつねに正しい。企業が失敗したときも、帰責してはならない。
10. 市場は市場が起こした問題をつねに解決できる
11. 普遍的価値としての自由:ネオリベラリズムは道徳原理。すべての道徳原理と同じく、価値それ自体として受けいれることを要求する。
・新自由主義と陰謀論
理念としての新自由主義は誤っている。それが政策として具体化され、負の影響を与える。これが「新自由主義」批判の理路だろう。
そこで政治過程が不明確なため、しばしば陰謀論が生じる。
デヴィッド・グレーバーは『ブルシット・ジョブ』で、陰謀論について面白いことを言っている。
まず、本書はなぜ政治行動が起きなかった述べるもので、いわば陰謀論でなく反陰謀論だということ。(p.15)
次に、オバマが医療制度改革に関して、単一支払者制度の不採用について述べたことへの批評。"「でもここでいう「非効率」とは、ブルークロス・ブルーシールドやカイザーなどで職に就いている100万、200万、300万人のことなのです。この人達をどうするんですか? この人達はどこで働けばいいのですか?」"。こうしてブルシット・ジョブが作られていることが明言されているにもかかわらず、それが陰謀論だと言う。まったく、どちらが陰謀論者なのか。(p.210)
ここで思いだすのが、ガルブレイスが『経済学の歴史』で述べた挿話だ。
飛行機で、ある経営者と座席が隣りあわせたが、その男はガルブレイスが経済学者だと知ると、自分が考える経済政策を得意げに語ったという。ガルブレイスはその男をクソバカだと書いているが、その男が語った経済政策は、いかにも素人考えらしい、新自由主義的なものだ。
つまり、知識人がひとをバカと罵りたいとき、「新自由主義」はその便利な換言になっているのではないだろうか。
「新自由主義」という語が、関係者をバカだと罵倒しているだけなら、陰謀論もなにもなく、濫用されがちなのはさもありなんというところだ。
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