アンリ・マティス
こちらの記事の言い訳
アンリ・マティス
病気がきっかけで法律家から画家に転身する。ルーヴル美術館などで模写を続け続けた結果、5年ほどで出品作が国家買上げとなるほどの頭角を現した。
年表
1869年
フランス北部のカトー・カンブレジに生まれる。
1887年
パリで法律を学ぶ。勉強の合間にルーヴル美術館へ行き、美術に興味をもつ。18歳。
1890年
虫垂炎にかかり、療養中に美術を始める。法律より美術に夢中になり、地元のデッサン教室へ行く。21歳。
1892年
美術学校に不合格。
1891年
ギュスターヴ・モローに師事。美術学校の予備校で学び始める。22歳。
1896年
国立美術学校に合格。「読書する女」が国家買上げとなる。27歳。
1898年
2歳年下のアメリーと結婚。29歳。
1905年
「帽子の女」をサロン・ドートンヌに出展。“野獣派”と言われる。
1907年
大パトロンのガードルード・スタインを介し、ピカソと出会う。38歳。
1910年
ロシアの大富豪からの依頼で大作「ダンス」を制作。41歳。
1921年
ニースに引っ越し、女性の肉体をテーマにして集中して描く。アメリカ・ヨーロッパでも名が通る。52歳。
1941年
癌の手術を受ける。手術は成功するが、車椅子生活となる。72歳。
1951年
ステンドグラスのデザイン相談を受けているうちに、全ての設計を引き受け、ロザリオ礼拝堂を完成させる。82歳。
1954年
ニースにて死去。84歳。
※ 絵画の参考がgoogle arts&cultureに1つも見当たらなかったので他サイトです。
世話人の勝手なイメージ
法律家から画家に転身とは今も昔も、なかなか難しいことですよね。
両親は画家になると言ってパリへ出向いたマティスに「貧乏な人生を送ることを選択したのだ」と仕送りをしながら手紙を送っていたそうです。
最初の年は美術学校に不合格してしまって、後にも先にもないマティスをギュスターヴ・モローは見離さず、その次の年には学校に合格。ピカソと同時代を生き、美術史の流れを変えたとまで言われるようになりました。
美術学校に落ちたから・諦めなかったから・その才能を持っていた・見出した人物が近くにいたから。
そういった偶然とも運命とも言えることが重なったからこそ、才能を発揮できたのだなと思うと、今、「有名な画家」と言われているすべての画家は、持っている運や才能を全て出し切る人生だったのかなといつも思います。
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