【兎角が紡ぐ】犠牲と献身【徒然文筆家】

 馬酔木(あしび)。物心が付いて幾何かの頃には、娘に付ける名前としてそれは如何なものかと問いたい気持ちもあったけれど、名付けられた以上、余程のことがない限り変えることもできない。それに、変わった名前だね、と言われることはあっても、特段不便を強いられたわけでもなかったので、深く考えることはしなかった。
 馬酔木(あしび)の花言葉は、「犠牲」「献身」。私の性格に合っていたのか、花言葉が私を作ったのか。今となっては考えても詮無い話。馬酔木として生を受けた私は、その花言葉通り、犠牲と献身に尽くすことになった。
 取り分け学生時代の私は、クラスに、クラスの安定に献身し、犠牲となった。
 クラスという輪は然して、全員を受け容れられるわけではない。どうしても許容範囲を超えた人というモノが出てきてしまう。つまりは椅子取りゲームと同じなのだ。座る椅子がなければ、クラスには馴染めない。椅子には当然限りがあり、例えば私が椅子を一つ使ってしまったら、その一つ分、座れない子が出てしまう。
 だから私は、私が座るはずのその椅子を、他の子のために譲った。その結果、当然と言えば当然だけれども、クラスに馴染むことは終ぞ無かった。それでも私に、後悔はなかった。
 クラスの中だけの話じゃない。例えば恋。私が誰かを好きになって、その人も私に好意を向けてくれたとき、そしてその人を好きな別の誰かが居たならば、私は喜んで身を引いた。私の好きな人が私以外の誰かを好きになって、付き合って、それを目の当たりにしたとき、献身による犠牲を心底喜んでしまった。
 己が犠牲になることよりも、「誰か」に「献身」できる瞬間が、私の幸せだった。あの人に出逢うまでは。
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 所用で下校が遅くなった私はその日、何処からか流れてくる音色を耳にすることになる。不思議と聞き流せず、耳に残るにそれを探して歩いた私は、音楽室に辿り着いた。吹奏楽部だろうか?こんな時間まで熱心だなと思いながら扉に目を遣ると、隙間が少し開いていた。ちょっとした好奇心で覗いた私の目に入った、一人の男性。
 顔は見えないけれど、背筋をピンと伸ばしピアノに向かい、隙間からでもよく見える華奢な指。どうやら吹奏楽部ではないようだ。それなのに遅くまで残って。
 その指は軽やかに、それでいて繊細な、何処か物悲しいメロディーを奏でて、ただそれだけのこと。それなのに私は彼に釘付けになってしまった。所謂「一目惚れ」だ。今まで抱かなかった感情が唐突に湧き上がる。彼を、彼の奏でる音色を、独占してしまいたいと。
 魂に刻まれ死は、献身と犠牲。私が彼と幸せになれる未来など無いというのに。
 初めて己を呪った。それでも、彼に献身したいと思う自分が居る。
 嗚呼、斯くして私は、思いの丈を打ち明け、彼は何を思ったのか、そんな私を受け容れてしまった。
 献身と犠牲。誰かに献身することで己を犠牲とする、馬酔木(あしび)の花言葉。だが、それだけではなかった。私の知らないモノ。献身と犠牲という刹那に留まらない、未来を見据えるモノ。
 華奢な指付きに違わず華奢な体躯。端正な顔付きに、何処か儚げな憂いを乗せた姿。声すらも、今にも空気に吸い込まれてしまうんじゃないかというほど細く繊細、それでいて温かな力強さを持ち。
『貴方と2人で旅をしましょう』
 それは彼から齎された言葉。私が最初から切り捨ててしまっていたモノ。献身と犠牲の先を歩こう、と。
 未知なる道へ。
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 馬酔木。
 花言葉だけ見れば、まるで敬虔な信者の様。
 その枝葉に毒を含むなぞとは夢にも思わず。
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 自ら望んでしてきたこととは言え、私は多くの場で献身と犠牲に尽くしてきた。
 ならば、それに見合うだけの幸福を享受しても良いのではないか、と。
 そう、魔が差してしまった。
 それが悪かったのかもしれない。
 私たちの旅路は、長くは続かなかった。
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 彼が悩みを抱えていることなんて、私は知らなかった。
 彼がピアノから音色を奏でる裏で、其処から逃げたかっただなんて、知る由もなかった。
 誰も彼もが彼のピアノにしか目を向けないこと。
 彼が、彼自身を見て欲しいと思っているなんて。
 それなのに私は、彼がピアノを弾く傍らに、ただひたすら寄り添いたいと願っていた。
 その音色を享受し、彼を愛し、それだけで良かった。彼自身を欠片も見ていないことなんて露にも知らず。
 ピアノを弾く姿が好きだった。しかしそれは、あくまでも奏でる音色とセットで。
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 彼は、私のことを知ろうとしてくれた。
 それなのに私は、彼のことを知ろうともしなかった。
 一目惚れしたあのワンシーンだけを切実に求め、彼に強要さえしてしまった。
 歪んだ献身。私はあのワンシーンに献身したいと思ってしまったのだ、彼自身ではなく。
 幸福の形を知らずに来たからなのか、幸福を心の片隅で望みながらしかし、幸福の在り方を知らなかった。いつだって幸福の席は他者へ譲ってきたのだから。
 行き過ぎた献身は、方向性を違えた献身は、彼を束縛することに他ならなかった。私は、彼をピアノへと束縛し、無理矢理弾かせ、その音色を彼と共に享受することこそ幸福なのだと。
 彼を、まるでオルゴールか何かのように扱う私。彼はそれでも私を否としなかった。余計に私は真実から外れていき、まるで遅効性の毒のように、ゆっくり、ゆっくりと、巡っていく。彼の心へと、巡っていった。
 ある日、いつもの放課後、彼を訪れた。彼と音楽室以外で話したことはなかった。それが異質だとすら気が付かず。
 扉を開いてから気が付いた。いつも聴こえる音色が聴こえてこないことに。そして、ピアノに力なく項垂れる姿。調子が悪いのだろうか?などと悠長なことを考えながら音楽室の中へと、彼の居場所へと歩み、そして。ピアノの傍らの机に、花瓶と、一輪の花が添えられていることに気が付いた。
 花の名前は、「馬酔木」。私の名前の由来であるその花はしかし、その枝葉の大半を失い、ただ花だけを残していた。
 馬酔木。献身と犠牲。
 2人で共に歩めれど、その枝葉は毒となりて、彼の中を満たしていたのだ。
 それを見て私は、直観的に、彼が二度とピアノを弾くことはないだろうと気が付いた。
 その瞬間、彼への興味が薄れることにも。
 何も告げず踵を返し、部屋を出た。
 いつものことだと、心の中で思った。
 献身には犠牲がつきもの。彼の音色を失ってしまったのだ。ただそれだけ。
 訪れたかもしれない未来を自ら切り捨てたことにすら、私は、気が付けなかった。
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 彼の死を知っても、あの音色を聴くことはもうないのだ、と悲嘆に暮れるだけだった。
 献身と犠牲を繰り返した私は、望むと望むまいと、献身の果てには犠牲がセットになることを思い知らされただけなのだと。
 彼が、音楽家の息子だったと知るのは、葬式が終わって間もない頃。
 幼い頃からコンクールで優勝するような逸材だったこと。本人が本当はピアノを離れ、他のことに挑戦したいと思っていたこと。それでも周囲の期待に応えるため、ピアノを辞められなかったこと。
 周りは皆、彼のピアノの腕だけを見ていた、彼自身のことを見るのではなく。
 それでも淡い期待を以て私に『貴方と2人で旅をしましょう』と言ってくれたのだとは終ぞ気が付くこともなく。
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 ありふれた街中。幸と不幸が混じり合う不協和音。
 今日も彼女は、献身と犠牲を行うのだろう。
 椅子取りゲームの椅子を、誰かに譲るのだ。
 然して、彼女に見初められた者は、彼女の代わりに犠牲となるのかもしれない。
 献身と犠牲に尽くした彼女。
 生来の気質は異質に膨れ上がり、いつしか逸話となって広がっていく。
 馬酔木の咲く季節になると、彼女がやってくる。彼女はただ献身し、己を犠牲にして満足するというのだ。しかし、彼女の献身に、彼女自身に犠牲を与えない心の持ち主は、ある日突然自殺してしまうとか。
 ほら、今もまた、椅子が一つ、譲られた。その椅子は未来への足掛けか、それとも……。

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