◾️報告書

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 この3ヶ月と少しで気づいた事は、圧倒的に説明が足りていないという事である。

 主に文章の中で不足している成分としては、
「修飾語」
らしい。


 例えるなら、ミートソースの材料を記載する際、

「トマトはお好みのものを使ってください。イタリア産?日本産?ローマ?ミニ?何でも結構!量も適量で構いません!」

なんて書き込んでいるのだ。

 読み手としては、
トマトが「どのくらいの量」必要で、
「どこ産」の物を使用するのか
(これはそこまで重要じゃないかもしれないけど:( )を知りたいのに、直接的な言及は避けられている。
しかも上記では、ミートソースに必要な
*ひき肉*については一切述べておらず、
そう言った意味でも「情報不足」と「具体性の喪失(数値が記されていない)」が見られることは、言わずもがなである。

 これらの事象は、何も自分の大幅な*適当さ*が招いた結果ではなく、自身の癖を直さず、書き起こしてしまった事によるものである。

(※とは言え、「1度情報を整理する」という手順を無視してるので、自分の適当さを全く度外視する事は出来ないという事実はある。)

 自分の癖。
 それは《あらゆる可能性に対する配慮と尊重》
である。



【須らく、全ての事象や物質に対しての可能性を、否定する事が出来ない】
というのが、自分の性質としてこびり付いている。
何故ならば、全ての可能性を自分が知っているわけではないからだ。


 知らないものを「知らない」と言う事。
今までの経験上、成し得ないものは「有り得ない」とカテゴライズする事。
一般的な「常識」や、上記条件に基づきながら、事象や物体について推察する事。

 どれもが簡単で普遍的で、あまつさえ「当然」ともされる行為である。
しかし、そこに留まる限り、 あらゆる事実に対する脳処理が追いつかず、事実が曲解されてしまう事がある。恐ろしいのは、「本来事実であるはずの事が、既存の事実に寄せられることで、無かった事」にされてしまうことだと思う。
繰り返しにはなるが、事実が存在しない物として処理され、誰かや多数によって、悪気があろうとなかろうと、消されてしまう事が恐ろしいのだ。

 だから、あらゆる事実に対して考える思考の余白を残す。誰かや何かの存在を無視することの無いように。


ところが、
これがあまり良くない事らしい。

少なくとも、私の周りの社会では。




 だからひとまず対抗として、そんな社会に対して、疑惑を抱いている。
個人ではなく、社会の存在を優先させるような、そんな在り方が。

(盲目的に自分を信じすぎるのもよく無いが、持論に対してはそれがまだ難しい。
だからまだ、じっと見ているだけなのだろう。)

 しかし、それもまた、隠された事実として、
あらゆる可能性に制限をかけなければ、説明が付かないし、まとまりも付かない。あくまで、諸々の可能性を考慮しつつ、その存在の明言を省略しているだけなのだ
という事があるのであれば、私がしている事は、全くもって無作法な行為である。自分の持論を尊重できておらず、相手に対して失礼なのは、人間社会を生きる上で、言語道断とされる事と思う。
これらが本当ならば、私は早急な大多数に対する謝罪と、自身の思考回路を組み替える必要がある。


 ここまで考え続けていると、結局社会は、個人の幸せを本当には願っていない様に思わずにはいられない。社会が個人の集合体であるならば、個人は他の個人に対しての幸福を願ってはおらず、幸福を謳っているのは、その行為自体を結果としてるだけであり、その先にある幸福の実現に対しては非情だと、考えてしまわずにはいられない。
これもまた、悪い癖の【持論の普遍化】によるのだけど。

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◾️報告 終了  


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