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映画 ドライブマイカーは実写化の手本になるか

映画「ドライブ・マイ・カー」を映画館で観てきた。普段は日本の映画は見ないのだが、村上春樹の小説が原作となり、何やら多くの賞にもノミネートされている話題作だ。感想を言おう。

よかった

とてもいい映画だと思う。だけど、感動した!泣ける!というわけではないし、面白かった!というのも違うと思う。ストーリーもうまくまとめられない(これは私の言語化能力の問題だが)。とにかく見てくれ、と言わざるを得ない不思議な映画だった。

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映画について話す前に、少々自分のことを書きたい。私は村上春樹のファンだ。特に初期~中期の作品が好きで、最近の作品も読んでいるが心に響いているわけではない。古い作品は何度も読み返している。村上春樹の素晴らしさは世界観にあると思う。休日の昼下がり。落ち着いた陽の光の中でゆっくりと展開する世界。もちろん、夜のバーで濃厚に展開する世界もあるが、それは村上春樹という軸を昼で表現するか、夜で表現するかの違いだ。

小説のドライブ・マイ・カーは映画を観た後、当日の夜に読んだ。3時間もある映画の原作ならば、さぞ大作、そして「やっぱり原作が最高だな。映画化はクソ。」そうなるはずだった。

違った。

映画のイメージに引きずられて小説をうまく読めなかった。そして、改めて映画は素晴らしかったと感じた。

ドライブ・マイ・カーは小説の映画化ではない。

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ドライブ・マイ・カーの何が素晴らしいかを考えてみる。

映像美ではない。

確かに美しい瀬戸内の景色、夜の高速道路、北国の雪といったシーンはあるが、あくまでも日常だ。映画として映像美を見せつけるという意図は感じないし、「日常で目にしているちょっときれいな景色」くらいに受け止める人が多いのではないか。舞台となる広島の映像も市街地が中心であくまでも日常なのだ。

音楽ではない。

ドライブ・マイ・カーでは音楽が流れていたか思い出せない。いや、たしかに流れていたのだが音楽で引き込む映画ではない。アナと雪の女王、ハリーポッター、大ヒット映画には良い音楽がつきものだが、ドライブ・マイ・カーの音楽はちょっと思い出せない。むしろ、音がない状況が目立つ。一番印象的だったシーンは、北海道への移動するシーンだ。これまでの道から雪景色に画面が切り替わる。そして、すべての音が消える。まるで雪に音が吸収されてしまったように。意味のあるシーンなのかと聞かれたら、多分違うだろう。しかし、この映画の音楽は?と聞かれればこのシーンを思い出す。全く音がしない映画館。観客の戸惑いを感じる。長い。まだ音がでない。耐えきれないように咳払いをする人がいる。いつもそうだ。こうした状況では必ずこうした人がいる。ほーらやっぱり。私はスクリーンを見つめ続ける。

もう一つ覚えているシーンがある。トンネルを抜けると雨が降っていた。ザーッ。シーンがそのままフェリーに変わった。なるほど雨音がフェリーの音につながるのか。ディズニーランドのエリアのつなぎ方を思い出した。

俺はこんなに気がついたんだぞ。と自慢したくなる要素がこの映画にはある。この意味は何か?と考えたくなる。

人物の美しさではない。

確かに出演する役者はかっこいいし、きれいな人がいる。しかし、あくまでも映画の設定のためだと感じる。ドライブ・マイ・カーでは舞台の上演のためにそれぞれの役者が存在する。舞台のドキュメンタリーのようなイメージだろうか。だから、役者がきれいでもおかしくはない。それは映画のための美ではなく、舞台のための美なのだから。結果的に美しい人々は出演しているが、それは劇中の舞台のためのものだという体裁がある。美しさで訴える映画ではない。

ストーリーの素晴らしさではない。

起承転結がわかりにくい映画だった。話が展開するまで我慢を強いられると思う。しかも、演劇がテーマに据えられている。演劇やミュージカルの"あの感じ"が苦手な人も多いだろう。それもディズニーのようなミュージカルではなく、シェイクスピアのような劇の話だ。原作を読んで気がついたのだが、そもそも原作に劇は全く関係なかった。話題になった北海道や、映画の舞台の広島も関係なかった。地方で公演する劇を話の主軸に据えるということがすでに新しいストーリーなのだ。

この映画の良さは何なのだろう。感動するわけでもない、泣けるわけでもない、全く意味がわからなくて通を気取れるわけでもない。だけど、こうして人に伝えたくなる。

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では、気になった点はないのかと言われるといくつかあった。

まずは運転。

ドライブ・マイ・カーのタイトル通り"運転がうまい"という評判の若い女性が車を運転する。まるで重力を感じさせないような素晴らしいテクニックを持っていると評される。だが、海沿いのカーブでは謎のブレーキが映る。アクセルを緩めればよいだろうというタイミングでブレーキを踏む。俗に言う?女の謎ブレーキだ。運転のうまさなんて主観的なものが多いし、外から評価できる項目もそれほど多くはない。だけど、ホテルでの停車から車を発進させるときにウインカーを出すとか、中の人が快適で、かつ適法なライン取りなどはもう少し気にしても良いのではないか。だってそういう設定ですから。

チェーホフの戯曲の多様も疲れる。

テーマであるのでしょうがないのだが、前編を通してチェーホフの戯曲のセリフが多い。やはり演劇なれしていない人には"演劇っぽさ"が辛いという人も多いだろう。

多言語も気になる。

劇中の舞台では多言語で劇が進む。日本人は英語でセリフを読み、中国人は中国語、韓国人は韓国語という感じだ。別にいいのだが、なんで?という思いはあった。そういうものである、純粋に台詞の音がウンタラカンタラ。色々と理由、理屈はあるのだろうけど、なんで?という思いは残った。

中国人(台湾人)、韓国人が出演しているとわざわざ外国人を出すのはなぜ?改悪なのでは?という思いが出るかと思ったが、それはなかった。なぜなら美人だから。かわいければOK。中国人のかわいさ、韓国人のかわいさがよく出ている。少々昔の人になるが、ビビアン・スーのかわいさといえば伝わるだろうか。あと、英語が上手な中国人のアクセントは非常にかわいい。

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ネタバレとなるが、ラストシーンでドライバーの女性は韓国にいる。スーパーで買物をし、駐車場で例の車に乗り込む。シルバーや白系の車ばかりの駐車場に赤い車は目立つ。まさに主人公オーラを出す車だ。このシーンに特に説明はなく、前後の流れも不明だ。これは色々と考えたくなる。

私の考えはこうだ。

車の持ち主であった家福に気に入られたミサキは車を譲り受けた。理由は何だろう。家福が前に進むためなのか、もっと単純な理由かもしれない。ミサキはなぜ韓国にいるのだろうか。劇中で晩御飯をごちそうしてくれた韓国人夫婦に幸せな家庭像を感じたからかもしれない。同じような犬が車に乗っていた。まずはできることから始めているのかもしれない。

なんで韓国?という思いはあるが、あえて日本を出ているシーンを見ると、それまでにどんな変化があったのだろうかと気にさせる効果はあると思う。

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ドライブ・マイ・カーは是非映画館で観てほしい。大画面で大音量で見ると良いからではない。きっと家では集中して観られないだろう。スマホを3時間も触らずに過ごし、無音環境を作ることが難しいからだ。主人公がダラダラと戯曲の台詞を喋っていれば他のことをしたくなるだろう。家のリビングで見るには辛い映画だ。決してけなしているわけではないが、映画館では気がつく事ができた多くのことを見逃すだろう。映画は同じだ。しかし、環境によって感動は大きく違うと思う。今更ではあるが、是非映画館で鑑賞してほしい。






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