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飯舘村の今

毎年数回は飯舘村に行っていたのに昨年は5月以来、今年の8月まで15ヶ月も間が空いてしまいました。久しぶりに訪れた飯舘村はいろいろな変化がありました。

車で県道12号を通り、川俣村から登り坂を登りきったところで飯舘村に入ります。右手にある元田んぼはしばらく除染土が詰まった黒いフレコンパックで埋め尽くされていましたが、それも気が付けばほとんどなくなっていました。時に稲が穂を付けている風景を見ると胸が躍る思いです。ただし、田んぼが復活しているのはごく僅かで復興まではまだまだ道のりがあることを思わされます。カバーの写真は復活した一部の田んぼです。

県道12号を離れ村の中心部へ向かうと除染土の詰まったフレコンパックがまだ残っています。多くの人の目に触れる所ではフレコンパックをなくす一方で、村の人しか行かない場所にはフレコンパックを残し続けていると言う意図を感じ落胆しました。

家には人の住んでいる痕跡が見られ、だいぶ人は戻ってきているのかもしれませんが、田畑がまだまだ再開されていない状況では、本宅と避難先のいわゆる二拠点での生活をしながら完全な帰還を模索しているのかと推察しました。

沿岸では町が津波で破壊されたため、否が応でも道路や建物は再建されて、新しい街ができています。飯舘村は津波が来ない代わりに放射線物質は降り注ぎ、それにより田畑は簡単には再開できず、除染ができずに取り壊しとなった家屋もあり、復興の姿が沿岸よりも見えにくくなっています。

半年後には東日本大震災から丸10年、沿岸のハード的な目に見えた復興に比べると内陸の原発事故だけの影響で被災した地域の復興は見た目にも相当な時間がかかりそうです。被災した時にも「格差」がありましたが、復興の過程でも「格差」を感じずにはいられない思いを胸に帰ってきました。

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