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「水道の出しっぱなし」と「水資源の不足の解消」を繋げるのは悪手なんじゃないのかという話

唐突に小学校で「水資源を大事に」みたいな話をやったことを思い出した。あまり覚えがないが、世界の国々の水不足の資料を見ながら「水道の出しっぱなし」などについて考えたような記憶がある。

原油は長期的にはサイクルが成立するが、現在利用されている量を考えるとほぼ限界量が決まっていると言って差し支えない。(更に言えば、精製過程でのあらゆる物質を下手に無駄なく使っているせいで、石油などの単体消費の置換だけではゼロにできない。地道にやるしかないが…)対して、水の浄化サイクルは極めて短く、かつ石油ほど単体で長距離の移動に耐える価値を今のところ持たない。「水の出しっぱなし」は浄水に必要な電力関連資源の話には結びつくが、如何にして世界の国々の水不足と結びつくのだろうと今更ながら疑問に思い、思索にふける。

この手の話を考えるなら、バーチャルウォーター、或いはウォーターフットプリントの話は考慮せねばなるまい。考えついた中では、恐らくこれが水資源の国を跨いだ取引に関係する最大(にして唯一?)の要因のように思う。これは確かに問題で、生活に対する「贅沢」の指標にはなるのかもしれない。しかしながら、これは相手国の水資源の価値上昇による経営上のリスクとしては見れても、我々が無駄遣いする生活用水を減らしたところで向こうの水不足が解消されることは(化石エネルギーによる電力供給の話をしていないので)ない。シャワーを出しっぱなしにしようが、水栓が開きっぱなしだろうが、我々が同じ量の外国産牛肉を食す限り状況は変わらない。

※インドのように現在進行系で砂漠化が進んでいる場合や、そうでなくても土壌や地下水、湖などの保有水量が減少傾向にある場合と、そうではないが経済的な理由で浄水施設不足が起こり、清潔な飲料水が確保できていない場合がある。水源のサイクルに対して、経済格差による他国からの水の「吸い上げ」にあっている地域はリスクの再分配と経済的価値への上乗せが必要だし、単純な浄水施設不足の場合、作物を育てる水も飲料水に適するものではなかったりするわけで、これは輸出による経済成長での正のフィードバックが期待できる。いわば経済による「ウォーターロンダリング」が起こるわけだ。多くの場合、これらは複合的に起こっているので大して問題視されないが、説明をする際に後者を直接的な原因と呼ぶことには違和感がある。

そういう意味で、水資源という頭抜けてサイクルの短い資源は、実質的に汎ゆる他種資源と置換関係にあると言えないだろうか。水を浄化する電力エネルギー、ひいてはそれを生み出す化石エネルギー資源の間接的輸入という文脈でこそ、我々が水を節制しなければならない理由が潜んでいるように思える。

学校教育に比べて私自身の思索など大したことはないので、なにか見落としというか、カラクリに気づけていないだけかもしれないのだが、取り敢えず納得できるだけの理由を考え出すには至らなかった。取り敢えずは化石エネルギー消費を抑えるために、今後も節水は心がけていこうと思う。

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