見出し画像

「Panasonic人権CM」からはじまる話

ここでするのは別に大坂なおみ選手がCMで思ってもいないことを言わされているとかそういう話ではなくて、このCMから妄想の膨らんだというだけの話だ。

職業を「金を稼ぐ要素」としてみると話は別だが、需要と供給で成り立ってる以上「社会の要請」であって「社会への奉仕」であると考えると、「その職業の存在する根幹に関する権利は優先され得ない」という少々過激にも取れる考えが浮かぶ。それが正しいかはおいておいて、「職業選択性」を神輿にしてそういった意識を持っていた世代の遺産と対峙させられている問題は多い。教員のそれは「次世代の育成」であって、さらに言えば「国家への奉仕者の育成(思想的な話ではなく、人材的な観点としてみても。)」ととれるから、それと相反する行動は一定の見解において制限される。或いは「巫女・生贄・天皇」も「社会的役割と相反する権利が認められない」という原理に基づいているし、逆説的に「明確に権利が認められていないことで社会的立ち位置の主張が行える」ということでもある。そしてこれは、アスリートも同様だと思っている。

彼らは「夢を与える」ことを生業としている。ひどく陳腐に聞こえるかもしれないが、人類の最速に到達したいと思うなら陸上競技などやらずに航空機に乗れば良い。彼らは「人間の能力を活かした姿を見せる」ことにより社会に奉仕しており、正しく「夢を与える」ことで食ってるのだ。
そしてそれ故に、アスリートは人権を切り売りしている。アスリートが夢であることは、現代では黒い部分を許さず、社会的正義を体現することと等しい。故に、嫌な言い方になってしまうが、アスリートで病気患って出自が多様で社会問題に敏感な大坂なおみ選手は、一昔前なら死んでいる偉人の言葉や物言わぬ動物にアテレコしていたような内容をCMで主張するのだ。(重ねていうが、これは構造的な需要の話として持ってきただけで、批判を意図していない。気分を害される方がいらしたら申し訳ない。)

しかし実際には、「第三者から見た選んだ感」と「自分でどの程度選んでるか」は全然違う尺度だ。私はあまり自由意志を信望していないのでこういう言い方になってしまうが、「職業選択性」など実際は大したことがないし、そんなものは認知的不協和によるら脳内バグに過ぎない。これによって基本的な権利が制限されるのは少なくとも今時の風潮には合わないとは思うし、私の信ずるところではない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?